(1)故あって1980年代の神戸を調べている。その昔にも少し遡らねばならない。
こういうとき、『街道をゆく』はまことに便利だ。第21巻の「芸備の道」「神戸散歩」「横浜散歩」は、週刊朝日1979年7月20日号~10月12日号、同1982年10月15日号~12月24・31日号に連載されている。その頃の「街道」の様子を伝えるとともに、司馬遼太郎らしい歴史的うんちく(というより人物的蘊蓄)が披露される。
(2)古来、瀬戸内海という海の廊下がゆきつく奥座敷の大阪湾には、いま2つの都市がある。大阪と神戸だが、都市の性格、機能、市民文化が互いに違う(民度も違う、という意見もある)。
神戸では、初老の旦那が横断歩道をわたる細君の手を執ることがあるのだが、東京ではそういうことをしない。大阪でもしない。
神戸は横浜とともに、日本の大都市のうち、例外的に江戸期の城下町の伝統がない。1868年元日に開港し、都市化した。最初は、港の港長までも御雇外国人の英国人だった。さらに海岸の砂地に外国人居留地ができ、やがて山手に雑居地が成立して、都市としての原形をなした。この点、祖型は外国人がつくったにひとしい。
この新都市にやってきて働く日本人は、外国人を主人とするなか、彼らの貿易の水揚げや船舶業務の利益のおこぼれをもらうことによって衣食する人が多く、海外の慣習や文化の影響を受けやすかった。旧幕時代に不自由ながら開港した横浜にくらべ、この点、神戸ではどれほど外国人のまねをしても旧幕府はとがめなかったし、攘夷志士に斬られる心配もなかった。
初老の男性が細君の手を執って横断歩道をわたるのは、居留地文化の名残らしい。異人さんのまねをしているうちに、身についてしまったらしい。
(3)神戸の居留地は明治32年に終了したが、気分としてはその後も残った。
神戸の居留地のもとは、生田川の河口付近の泥と砂の低湿地だ。これを埋め立て、盛り土し、碁盤状に区画し、一番、二番と番号をふり、逐次建物がたつことによってできた。
欧州の感覚では、都市は空閑の状態において設計されるべきものであった。この居留地にあっては、まだ建物もろくに建っていない明治元年11月13日、この地を使用する人々があつまって自治会をひらき、「街路樹を植えよう」と提議された。
数ヶ月後に実現された。
遊歩地のための芝生もうえられた。20年後には、この居留地は建物と緑がよくつりあって、公園のような都市美観をもつようになった。
ここで神戸の原形が成立した・・・・というべきだが、当時、居留地をとりまく日本人の市域はきたなかったらしい。そのころの日本人にとって、目の前の居留地こそ都市思想の見本である、と考えるには、素地がなさすぎたらしい。
神戸が、市も市民も一つの思想のもとに都市建設をするようになるのは、第二次世界大戦で焼かれてからのことだ。
空襲で焼かれたのは、名古屋や博多など他の都市もそうだったが、復興と建設の結果、神戸のようにならなかったのは、まちの祖型についての記憶が神戸と異なっていたからに違いない。さらには、神戸においては、自分の都市の祖型を尊重するという開明的な(または、居留地や山手の異人館の美観についての憧憬心が)、市民の共通の気分のなかに息づいていたのだ。
(4)神戸は開港早々から貿易取扱高が大きかったのに、2年間も銀行がなかった。最初に開設されたのは、1870年開設の香港上海銀行神戸支店だった。メリケン波止場のすじむかいにあり、赤レンガ造りで、高い階段があった。
香港上海銀行は英国資本で、1864年つまり神戸の開市の4年前に創立した。創立ほどなく神戸に進出したのだ。
初代支店長はヘンリー・スミス。はじめは業務内容も限られていて、1878年ごろになっても欧州人スタッフはJ・モリソン支店長とJ・J・クレイク出納係の2人だけだった。その後、居留地の区画の2番を買収し、1898年に銀行の建物が完成した。
なお、海岸通りから一つ山手に入った通りに英国の植民地銀行があった。石造りの「インド・オーストラリア・中国のチャータード銀行」だ。第二次世界大戦後、1956年、銀行の正式の名はかつての略称どおりチャータード銀行になった。
当初ブラウン商会が代行し、初代支店長のA・S・ハーバーは開設後まもなく死亡した。名高い演劇評論家ウィリアム・アーチャーの弟ジェームス・アーチャーが後任になった。同行は、開設後間もなく26番に移転、1913年、67番の土地に立派な建物を建てた。
(5)司馬遼太郎が散歩した神戸市街地のなかで、西方の兵庫の湊は江戸期に廻船の発着場として栄えていたが、明治後、港市の中心となる神戸は寒村にすぎなかった。明治31年当時、砂灘一帯波浪の洗うに任せ、宮前浜と弁天浜とに神戸村の船入場を存するの外は、神のまにまになる風情を示し、汐風寒く、萩の枯葉を動かすのみ・・・・といったうら寂しい海浜だった。
この地に最初に着目したのは、勝海舟・幕府軍艦奉行並(当時)だった。
かれは家茂・将軍を説き、ここに海軍操練所をつくった。敷地は17,000坪。校舎は大坂の御船蔵を移築し、寮舍もつくった。練習船はオランダ製の観光丸など。教授は、勝校長ひとり。
経費はすべて幕府持ちだが、内実は私学にちかい。応募資格を幕臣に限定せず、諸藩の士(明治の語感での「民間」に近い)を含めたばかりか、浪人でさえいいということになったからだ。げんに土佐の脱藩浪人(坂本竜馬)が塾頭だった。薩長の藩士も多く、最初から反幕気分が横溢して、ほとんど革命学校の様相を呈していた。
蛤御門の変の直前の元治元(1864)年5月に開校。
しかし、江戸の幕閣は勝の肚のなかを疑い、開講後半年余で閉鎖し、勝のなったばかり軍艦奉行もとりあげ、寄合にしてしまった。休職にちかい処遇だ。
(6)勝は、海軍操練所時代の最初、土地の名家(生島四郎太夫)の屋敷に下宿し、次いで生田の森に近いところに屋敷をたて、寮生とはべつの書生をとりたてて住みこませた。
勝は後年『氷川話』で語る。当時つまらない百姓家ばかりだったあの一帯の買い取りを生島にすすめ、半信半疑の生島はそれにしたがった。維新後、1坪何十円という高価になって、生島は非常に儲けた。
司馬は、これを評していう。<勝は、経綸家として幕末にぬきんでた存在でありながら、小事についてもぬけ目のない目玉をもっていたし、それが自慢でもあった。>
□司馬遼太郎『街道をゆく21 神戸・横浜散歩/芸備の道』(朝日文庫、1988)
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こういうとき、『街道をゆく』はまことに便利だ。第21巻の「芸備の道」「神戸散歩」「横浜散歩」は、週刊朝日1979年7月20日号~10月12日号、同1982年10月15日号~12月24・31日号に連載されている。その頃の「街道」の様子を伝えるとともに、司馬遼太郎らしい歴史的うんちく(というより人物的蘊蓄)が披露される。
(2)古来、瀬戸内海という海の廊下がゆきつく奥座敷の大阪湾には、いま2つの都市がある。大阪と神戸だが、都市の性格、機能、市民文化が互いに違う(民度も違う、という意見もある)。
神戸では、初老の旦那が横断歩道をわたる細君の手を執ることがあるのだが、東京ではそういうことをしない。大阪でもしない。
神戸は横浜とともに、日本の大都市のうち、例外的に江戸期の城下町の伝統がない。1868年元日に開港し、都市化した。最初は、港の港長までも御雇外国人の英国人だった。さらに海岸の砂地に外国人居留地ができ、やがて山手に雑居地が成立して、都市としての原形をなした。この点、祖型は外国人がつくったにひとしい。
この新都市にやってきて働く日本人は、外国人を主人とするなか、彼らの貿易の水揚げや船舶業務の利益のおこぼれをもらうことによって衣食する人が多く、海外の慣習や文化の影響を受けやすかった。旧幕時代に不自由ながら開港した横浜にくらべ、この点、神戸ではどれほど外国人のまねをしても旧幕府はとがめなかったし、攘夷志士に斬られる心配もなかった。
初老の男性が細君の手を執って横断歩道をわたるのは、居留地文化の名残らしい。異人さんのまねをしているうちに、身についてしまったらしい。
(3)神戸の居留地は明治32年に終了したが、気分としてはその後も残った。
神戸の居留地のもとは、生田川の河口付近の泥と砂の低湿地だ。これを埋め立て、盛り土し、碁盤状に区画し、一番、二番と番号をふり、逐次建物がたつことによってできた。
欧州の感覚では、都市は空閑の状態において設計されるべきものであった。この居留地にあっては、まだ建物もろくに建っていない明治元年11月13日、この地を使用する人々があつまって自治会をひらき、「街路樹を植えよう」と提議された。
数ヶ月後に実現された。
遊歩地のための芝生もうえられた。20年後には、この居留地は建物と緑がよくつりあって、公園のような都市美観をもつようになった。
ここで神戸の原形が成立した・・・・というべきだが、当時、居留地をとりまく日本人の市域はきたなかったらしい。そのころの日本人にとって、目の前の居留地こそ都市思想の見本である、と考えるには、素地がなさすぎたらしい。
神戸が、市も市民も一つの思想のもとに都市建設をするようになるのは、第二次世界大戦で焼かれてからのことだ。
空襲で焼かれたのは、名古屋や博多など他の都市もそうだったが、復興と建設の結果、神戸のようにならなかったのは、まちの祖型についての記憶が神戸と異なっていたからに違いない。さらには、神戸においては、自分の都市の祖型を尊重するという開明的な(または、居留地や山手の異人館の美観についての憧憬心が)、市民の共通の気分のなかに息づいていたのだ。
(4)神戸は開港早々から貿易取扱高が大きかったのに、2年間も銀行がなかった。最初に開設されたのは、1870年開設の香港上海銀行神戸支店だった。メリケン波止場のすじむかいにあり、赤レンガ造りで、高い階段があった。
香港上海銀行は英国資本で、1864年つまり神戸の開市の4年前に創立した。創立ほどなく神戸に進出したのだ。
初代支店長はヘンリー・スミス。はじめは業務内容も限られていて、1878年ごろになっても欧州人スタッフはJ・モリソン支店長とJ・J・クレイク出納係の2人だけだった。その後、居留地の区画の2番を買収し、1898年に銀行の建物が完成した。
なお、海岸通りから一つ山手に入った通りに英国の植民地銀行があった。石造りの「インド・オーストラリア・中国のチャータード銀行」だ。第二次世界大戦後、1956年、銀行の正式の名はかつての略称どおりチャータード銀行になった。
当初ブラウン商会が代行し、初代支店長のA・S・ハーバーは開設後まもなく死亡した。名高い演劇評論家ウィリアム・アーチャーの弟ジェームス・アーチャーが後任になった。同行は、開設後間もなく26番に移転、1913年、67番の土地に立派な建物を建てた。
(5)司馬遼太郎が散歩した神戸市街地のなかで、西方の兵庫の湊は江戸期に廻船の発着場として栄えていたが、明治後、港市の中心となる神戸は寒村にすぎなかった。明治31年当時、砂灘一帯波浪の洗うに任せ、宮前浜と弁天浜とに神戸村の船入場を存するの外は、神のまにまになる風情を示し、汐風寒く、萩の枯葉を動かすのみ・・・・といったうら寂しい海浜だった。
この地に最初に着目したのは、勝海舟・幕府軍艦奉行並(当時)だった。
かれは家茂・将軍を説き、ここに海軍操練所をつくった。敷地は17,000坪。校舎は大坂の御船蔵を移築し、寮舍もつくった。練習船はオランダ製の観光丸など。教授は、勝校長ひとり。
経費はすべて幕府持ちだが、内実は私学にちかい。応募資格を幕臣に限定せず、諸藩の士(明治の語感での「民間」に近い)を含めたばかりか、浪人でさえいいということになったからだ。げんに土佐の脱藩浪人(坂本竜馬)が塾頭だった。薩長の藩士も多く、最初から反幕気分が横溢して、ほとんど革命学校の様相を呈していた。
蛤御門の変の直前の元治元(1864)年5月に開校。
しかし、江戸の幕閣は勝の肚のなかを疑い、開講後半年余で閉鎖し、勝のなったばかり軍艦奉行もとりあげ、寄合にしてしまった。休職にちかい処遇だ。
(6)勝は、海軍操練所時代の最初、土地の名家(生島四郎太夫)の屋敷に下宿し、次いで生田の森に近いところに屋敷をたて、寮生とはべつの書生をとりたてて住みこませた。
勝は後年『氷川話』で語る。当時つまらない百姓家ばかりだったあの一帯の買い取りを生島にすすめ、半信半疑の生島はそれにしたがった。維新後、1坪何十円という高価になって、生島は非常に儲けた。
司馬は、これを評していう。<勝は、経綸家として幕末にぬきんでた存在でありながら、小事についてもぬけ目のない目玉をもっていたし、それが自慢でもあった。>
□司馬遼太郎『街道をゆく21 神戸・横浜散歩/芸備の道』(朝日文庫、1988)
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