(1)土建国家の定義・・・・経済成長を政府が支えながら、公共投資と減税の二本柱によって利益を分配するシステム。
土建国家型利益分配メカニズムから戦後史をみると、日本という国のかたちがこれまでとはちがった形ではっきり見えてくる。
(2)前史。
1960年代以降、公共投資を地方に傾斜配分し、都市には移動できない低所得層の再雇用機会を保障した。次に減税。成長の果実を分配し、都市中間層も受益者とすることで地方への資源配分に合意をとりつける役割を果たした。公共投資と減税がパッケージになっていて、都市と地方、中間層と低所得層の連帯を可能にした。
(3)土建国家が離陸する分岐点は、ニクソンショック(1971年)、オイルショック(1973、1978年)と、経済危機があいついで、経済成長の鈍化に直面しつつあった時期。
一時的には、国際的に公共投資を重視する動きがみられた。ところが、その後の抑制期に、日本だけが公共投資への依存を深めていった。
このとき、1973年(福祉元年)ごろ、日本政府には2つの選択肢があった。
(a)社会保障を現金だけでなく、現物給付もあわせて拡充し、必要な財源を増税によってまかなう道。
(b)赤字国債を大量に発行して、政府が成長のエンジンとなることで、高度成長期の利益分配(減税と公共投資による統合)を再生産していく道。
(a)を選べば日本もヨーロッパ型福祉国家へ進む可能性があったが、結局(b)を選んだ。すると、高度成長期のように自然増収をどう分配するかではなくて、借金で確保した予算をどう分けるか、奪い合いの政治をせざるをえなくなる。公共投資が増えたら、その分、社会保障を削る、という発想が定着する。
(4)(3)の分かれ道から、日本は、ずっと現金給付のスタイルできた。増税で現物給付を豊かにするような経験をもつことはなかった。むしろ減税により還元されたお金で、教育・福祉・医療・住宅等の社会サービスを市場から購入するスタイルに馴染んでいく。
(5)ヨーロッパでも日本でも、ある時点までは、社会にとっての最大のリスクは男性稼ぎ主の賃金がなくなることだった。だから、疾病手当や失業手当、退職したときのために年金制度を用意してきた。
でも、しだいに、女性が担ってきた仕事(福祉・介護・保育など)の担い手をどう確保するのかが新しい問題になった。そこで、女性の社会進出が進むにつれ、ヨーロッパでは育児保育や養老介護サービスを劇的に増やしていく。
一報の日本は、日本型福祉社会論のように、女性をできるかぎり家に押しとどめることで、社会保障を抑制しようとした。
(6)転換(分かれ道)の当時は政治的には冷戦下、保革対立の時代だ。
田中角栄らが老人医療の無料化や5万円年金の導入など、社会保障政策を充実させた背景にも、社会党や共産党などが地方で存在感を示し始めて、各地に革新自治体が現れたことへの危機感があったからだ、とされる。
(7)(3)の選択肢は、福祉について、普遍主義に進むのか、選別主義に行くのかの分岐点でもあった。
このタイミングで台頭してきたのが「族議員」だ。族議員の政治は、特定の官庁、利益団体と結びつきながら、個別利益を導入する政治だ。しかも、中選挙区制では複数の当選者が出るから、他の候補とは違う利益を誘導しないといけない。
公共事業は、横並びで省庁が予算をぶんどっていくのに都合がよい仕組みだった。道路をつくれば建設省、鉄道なら運輸省、福祉施設なら厚生省、学校施設なら文部省。あらゆる省庁の利益になり得た。
しかし、普遍的な「みんなの利益」を実現するようなアイデアは、この構造のなかからは生まれ辛い。
□井出英策×佐々木実「「土建国家」と規制改革の果てから」(「世界」2014年8月号)
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土建国家型利益分配メカニズムから戦後史をみると、日本という国のかたちがこれまでとはちがった形ではっきり見えてくる。
(2)前史。
1960年代以降、公共投資を地方に傾斜配分し、都市には移動できない低所得層の再雇用機会を保障した。次に減税。成長の果実を分配し、都市中間層も受益者とすることで地方への資源配分に合意をとりつける役割を果たした。公共投資と減税がパッケージになっていて、都市と地方、中間層と低所得層の連帯を可能にした。
(3)土建国家が離陸する分岐点は、ニクソンショック(1971年)、オイルショック(1973、1978年)と、経済危機があいついで、経済成長の鈍化に直面しつつあった時期。
一時的には、国際的に公共投資を重視する動きがみられた。ところが、その後の抑制期に、日本だけが公共投資への依存を深めていった。
このとき、1973年(福祉元年)ごろ、日本政府には2つの選択肢があった。
(a)社会保障を現金だけでなく、現物給付もあわせて拡充し、必要な財源を増税によってまかなう道。
(b)赤字国債を大量に発行して、政府が成長のエンジンとなることで、高度成長期の利益分配(減税と公共投資による統合)を再生産していく道。
(a)を選べば日本もヨーロッパ型福祉国家へ進む可能性があったが、結局(b)を選んだ。すると、高度成長期のように自然増収をどう分配するかではなくて、借金で確保した予算をどう分けるか、奪い合いの政治をせざるをえなくなる。公共投資が増えたら、その分、社会保障を削る、という発想が定着する。
(4)(3)の分かれ道から、日本は、ずっと現金給付のスタイルできた。増税で現物給付を豊かにするような経験をもつことはなかった。むしろ減税により還元されたお金で、教育・福祉・医療・住宅等の社会サービスを市場から購入するスタイルに馴染んでいく。
(5)ヨーロッパでも日本でも、ある時点までは、社会にとっての最大のリスクは男性稼ぎ主の賃金がなくなることだった。だから、疾病手当や失業手当、退職したときのために年金制度を用意してきた。
でも、しだいに、女性が担ってきた仕事(福祉・介護・保育など)の担い手をどう確保するのかが新しい問題になった。そこで、女性の社会進出が進むにつれ、ヨーロッパでは育児保育や養老介護サービスを劇的に増やしていく。
一報の日本は、日本型福祉社会論のように、女性をできるかぎり家に押しとどめることで、社会保障を抑制しようとした。
(6)転換(分かれ道)の当時は政治的には冷戦下、保革対立の時代だ。
田中角栄らが老人医療の無料化や5万円年金の導入など、社会保障政策を充実させた背景にも、社会党や共産党などが地方で存在感を示し始めて、各地に革新自治体が現れたことへの危機感があったからだ、とされる。
(7)(3)の選択肢は、福祉について、普遍主義に進むのか、選別主義に行くのかの分岐点でもあった。
このタイミングで台頭してきたのが「族議員」だ。族議員の政治は、特定の官庁、利益団体と結びつきながら、個別利益を導入する政治だ。しかも、中選挙区制では複数の当選者が出るから、他の候補とは違う利益を誘導しないといけない。
公共事業は、横並びで省庁が予算をぶんどっていくのに都合がよい仕組みだった。道路をつくれば建設省、鉄道なら運輸省、福祉施設なら厚生省、学校施設なら文部省。あらゆる省庁の利益になり得た。
しかし、普遍的な「みんなの利益」を実現するようなアイデアは、この構造のなかからは生まれ辛い。
□井出英策×佐々木実「「土建国家」と規制改革の果てから」(「世界」2014年8月号)
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