(1)神戸の飲み水は六甲山系から湧き出る。当然、とびきりのものとされていた。
かつて神戸に寄港する外国船のよろこびは、水槽の水を空にして神戸の水をあふれるほど積むことだった。神戸の水とは、布引の滝の水のことだ。厳密にいえば、布引の滝のすこし上の布引貯水池からパイプで送られる水だ。
神戸にはあと2か所貯水池があり、水質は同じだが、船に対してはとくに布引から送られる。つまり貯水池の浄化水がパイプで港まで直送されるといった仕組みで、続いてきた。
布引の水は、六甲の老化した花崗岩層をくぐってきて適度のミネラルを含んでいるためにうまいのだ、といわれるし、船が赤道をこえてもうまさに変化がない、などともいわれてきた。
そういうコウベ・ウォーターについては、明治のころは、「水屋」というものが活躍して、寄港する船舶に水を売っていた。
西宮をはじめ灘五郷にも、江戸時代、酒造屋に水を売る「水屋」という商売があったから、水を売ることは、このあたりでは慣れていた。明治38年、市が水屋から権利その他を買いあげて、以後、神戸市が直営し、市の財源の一つになっている。
神戸の人口が膨張し、滝のひとつや二つではまちや船の飲み水をまかなえなくなった。いまは【注】、神戸市の水道ぜんたいの8割が淀川へ依存する。阪神水道企業団の水に、布引の水がポタポタという程度だ。
(2)歴史的に水に恵まれていたせいか、神戸の水道は遅れた。
横浜に水道をつくったパーマーを呼んで視察にきてもらうが、予算などのため、着工にいたらなかった。そのあと、W・K・バルストン・東京帝国大学衛生工学教師/内務省衛生局雇工師に依頼した。明治25年のことだ。
その後、事が進まず、完工したのが明治33年だった。布引貯水池も、このときにできた。
神戸ほど、上水道工事が容易な土地は多くあるまい。(a)水源がまちのそばにある。(b)市街地が背後の山から海へ傾いているため、パイプを敷設するだけで天然水圧で水はくばられてゆ「く。
そういうまちで水道が他の都市にくらべ、よほど遅れたというのは、水についての逼迫感が乏しかったからにちがいない。
「水屋」たちの利害感情も、ありは県会などに反映したかもしれない。
もっとも、神戸の「水屋」たちも、山から水を汲んできて荷馬車に積み、岸壁から給水船に積みかえるという牧歌的なやり方ではとても追いつかなくなった。
内外の船舶が輻輳して、大八車式の水運びではどうにもならず、当時、海岸通りにあった日本郵船会社などは給水にこまり、「神戸区がなさらぬなら、私設でつくる」と、明治22年に上申しているほどで、県をまごつかせた。
ちなみに、神戸市は明治22年に成立し、水道は市が中心となる。ただし、神戸市は、市民への給水よりも船舶給水の問題を急務とし、しかも主導的であり、ときには恫喝的でさえあった。このあたり、同時代の大阪の事情とくらべてそのちがいを察するべきだ。
(3)神戸の海側から山側をみると、東から西へ連峰がつらなっている。東からかぞえると、六甲山頂、摩耶山、再度山、ひよどり越から一ノ谷にいたる。それらの山麓が市街地になっている。市街地だけでいえば、東京の一区か二区ほどで、都市としてまことに適正な規模だ。
この都市を成立させている水源地の滝を見ておけば、神戸の原形にふれる感じをするだろう。
神戸は自然との関係においては奇跡のようなまちで、布引の滝など、遠くにあるわけではない。
新神戸駅の背後(北)まで山が押し寄せている。滝は、駅から北へ、直線距離3~400mほどの山中にある。
山道をのぼるうちに、山の中腹に展望台がある。四方は見えず、とくに背後は山壁にふさがれていて、見えるのは、木の間がくれの海の光だけだ。神戸ではたれもが港を見たがる。山手の異人館も、窓を港の方角にひらいて飽くことなく港を見る。滝が名所の布引の山中の展望台ですら、港が見えるようにしつらえられている。美人は見られることによってつくられるというが、神戸港はそういう港だ。
布引の滝へは、展望台から、岩場の間に造られたせまい石段を降り、岩場の根の小径をくだってゆかねばならない。
石段を降りると、岩場のあちこちに歌碑がある。
この滝は王朝のころから歌の名所になっていて、鎌倉初期の歌(藤原定家)もある。
小径はなにやら地の底へくだってゆく感じだが、布引の滝の「雄滝」については、枝道を右へ折れる(標識あり)。すべては雑木林のなかだ。
枝道をくだってゆくと、樹間のむこうに滝の音がとどろきはじめる。ゆきどまりが茶屋だ。崖にひっかかるようにして建てられている。茶屋ののれんに「おんたき」という文字が染め抜かれている。雄滝は近畿のなまりどおり「おんたき」と訓ずるのかもしれない。
たぎり落ちる雄滝を見るには、この茶店の手すりから身をのり出して右手を仰ぐようにせねばならない。すさまじいばかりの瀑布だ。落下して滝壺にいたる高さは43mもある。
この場所からは見えないが、別に夫婦滝、鼓ケ滝といった短い滝があり、下のほうに14mの雌滝が」落ちている。布引の滝は、いくつかの滝が複合し、連動しながら、落ちてゆくのだ。
雄滝は垂直の落下ではない。
鉄さび色に濡れた山骨が、やや勾配を持ち、滝に背もたれさせているような感じで水を落としてゆく。布引というのは、その感じから出た命名だろう。白い拷の布を晒すような角度だから、布引と呼ぶか。平安朝のころから京都の公家・僧侶といった知識人が歌の名所にしていただけに、洗練された名前がつけられ、定着していったのだろう。
布引の滝という名は、京都文化の延長のなかでつけられた名と考えてよい。布引の滝の源は、六甲山系のなかの獺池だ。これは山で働くひとびとが符牒としてよんでいた地名だろう。神戸における他の水源地の名が、島原、千刈であるというのも符牒めいていて、また同じ産経のなかのだんごノ奥池とか、瓢箪池、阪急池というのも符牒で、とても歌に詠みこめるほどには洗練されていない。これによってみても、布引の滝が、いかにそのあざやかな名前によって滝という自然の生命が、人文的にも深められてきたかがわかる。
【注】「いまは」というのは司馬が神戸を歩いた頃のことで、以下同じ。
□司馬遼太郎『街道をゆく21 神戸・横浜散歩/芸備の道』(朝日文庫、1988)
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【参考】
「【旅】居留地 ~神戸~」
雄滝
かつて神戸に寄港する外国船のよろこびは、水槽の水を空にして神戸の水をあふれるほど積むことだった。神戸の水とは、布引の滝の水のことだ。厳密にいえば、布引の滝のすこし上の布引貯水池からパイプで送られる水だ。
神戸にはあと2か所貯水池があり、水質は同じだが、船に対してはとくに布引から送られる。つまり貯水池の浄化水がパイプで港まで直送されるといった仕組みで、続いてきた。
布引の水は、六甲の老化した花崗岩層をくぐってきて適度のミネラルを含んでいるためにうまいのだ、といわれるし、船が赤道をこえてもうまさに変化がない、などともいわれてきた。
そういうコウベ・ウォーターについては、明治のころは、「水屋」というものが活躍して、寄港する船舶に水を売っていた。
西宮をはじめ灘五郷にも、江戸時代、酒造屋に水を売る「水屋」という商売があったから、水を売ることは、このあたりでは慣れていた。明治38年、市が水屋から権利その他を買いあげて、以後、神戸市が直営し、市の財源の一つになっている。
神戸の人口が膨張し、滝のひとつや二つではまちや船の飲み水をまかなえなくなった。いまは【注】、神戸市の水道ぜんたいの8割が淀川へ依存する。阪神水道企業団の水に、布引の水がポタポタという程度だ。
(2)歴史的に水に恵まれていたせいか、神戸の水道は遅れた。
横浜に水道をつくったパーマーを呼んで視察にきてもらうが、予算などのため、着工にいたらなかった。そのあと、W・K・バルストン・東京帝国大学衛生工学教師/内務省衛生局雇工師に依頼した。明治25年のことだ。
その後、事が進まず、完工したのが明治33年だった。布引貯水池も、このときにできた。
神戸ほど、上水道工事が容易な土地は多くあるまい。(a)水源がまちのそばにある。(b)市街地が背後の山から海へ傾いているため、パイプを敷設するだけで天然水圧で水はくばられてゆ「く。
そういうまちで水道が他の都市にくらべ、よほど遅れたというのは、水についての逼迫感が乏しかったからにちがいない。
「水屋」たちの利害感情も、ありは県会などに反映したかもしれない。
もっとも、神戸の「水屋」たちも、山から水を汲んできて荷馬車に積み、岸壁から給水船に積みかえるという牧歌的なやり方ではとても追いつかなくなった。
内外の船舶が輻輳して、大八車式の水運びではどうにもならず、当時、海岸通りにあった日本郵船会社などは給水にこまり、「神戸区がなさらぬなら、私設でつくる」と、明治22年に上申しているほどで、県をまごつかせた。
ちなみに、神戸市は明治22年に成立し、水道は市が中心となる。ただし、神戸市は、市民への給水よりも船舶給水の問題を急務とし、しかも主導的であり、ときには恫喝的でさえあった。このあたり、同時代の大阪の事情とくらべてそのちがいを察するべきだ。
(3)神戸の海側から山側をみると、東から西へ連峰がつらなっている。東からかぞえると、六甲山頂、摩耶山、再度山、ひよどり越から一ノ谷にいたる。それらの山麓が市街地になっている。市街地だけでいえば、東京の一区か二区ほどで、都市としてまことに適正な規模だ。
この都市を成立させている水源地の滝を見ておけば、神戸の原形にふれる感じをするだろう。
神戸は自然との関係においては奇跡のようなまちで、布引の滝など、遠くにあるわけではない。
新神戸駅の背後(北)まで山が押し寄せている。滝は、駅から北へ、直線距離3~400mほどの山中にある。
山道をのぼるうちに、山の中腹に展望台がある。四方は見えず、とくに背後は山壁にふさがれていて、見えるのは、木の間がくれの海の光だけだ。神戸ではたれもが港を見たがる。山手の異人館も、窓を港の方角にひらいて飽くことなく港を見る。滝が名所の布引の山中の展望台ですら、港が見えるようにしつらえられている。美人は見られることによってつくられるというが、神戸港はそういう港だ。
布引の滝へは、展望台から、岩場の間に造られたせまい石段を降り、岩場の根の小径をくだってゆかねばならない。
石段を降りると、岩場のあちこちに歌碑がある。
この滝は王朝のころから歌の名所になっていて、鎌倉初期の歌(藤原定家)もある。
小径はなにやら地の底へくだってゆく感じだが、布引の滝の「雄滝」については、枝道を右へ折れる(標識あり)。すべては雑木林のなかだ。
枝道をくだってゆくと、樹間のむこうに滝の音がとどろきはじめる。ゆきどまりが茶屋だ。崖にひっかかるようにして建てられている。茶屋ののれんに「おんたき」という文字が染め抜かれている。雄滝は近畿のなまりどおり「おんたき」と訓ずるのかもしれない。
たぎり落ちる雄滝を見るには、この茶店の手すりから身をのり出して右手を仰ぐようにせねばならない。すさまじいばかりの瀑布だ。落下して滝壺にいたる高さは43mもある。
この場所からは見えないが、別に夫婦滝、鼓ケ滝といった短い滝があり、下のほうに14mの雌滝が」落ちている。布引の滝は、いくつかの滝が複合し、連動しながら、落ちてゆくのだ。
雄滝は垂直の落下ではない。
鉄さび色に濡れた山骨が、やや勾配を持ち、滝に背もたれさせているような感じで水を落としてゆく。布引というのは、その感じから出た命名だろう。白い拷の布を晒すような角度だから、布引と呼ぶか。平安朝のころから京都の公家・僧侶といった知識人が歌の名所にしていただけに、洗練された名前がつけられ、定着していったのだろう。
布引の滝という名は、京都文化の延長のなかでつけられた名と考えてよい。布引の滝の源は、六甲山系のなかの獺池だ。これは山で働くひとびとが符牒としてよんでいた地名だろう。神戸における他の水源地の名が、島原、千刈であるというのも符牒めいていて、また同じ産経のなかのだんごノ奥池とか、瓢箪池、阪急池というのも符牒で、とても歌に詠みこめるほどには洗練されていない。これによってみても、布引の滝が、いかにそのあざやかな名前によって滝という自然の生命が、人文的にも深められてきたかがわかる。
【注】「いまは」というのは司馬が神戸を歩いた頃のことで、以下同じ。
□司馬遼太郎『街道をゆく21 神戸・横浜散歩/芸備の道』(朝日文庫、1988)
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【参考】
「【旅】居留地 ~神戸~」
雄滝