(8)自動車や電機といった製造業が「日本型企業」の主役だったが、それでも建設業がこれだけの影響力を持ってきたことが重要だ。大手ゼネコンだけではなく、地方には、世界に例を見ないほど中小の建設業が生き残っていて、兼業先を提供する形で農業人口も長らく支えてきた。
1965年を境に、急激に三大都市圏への人口流入が減るが、この時期は地方への公共事業を増やした時期だ。その後も、公共事業の増減は、人口移動の波に大きな影響を及ぼしている。
建設業衰退の結果、寄付が集まらず、花火大会や祭りを開催できなくなった地域も多い。
建設業が地域コミュニティの紐帯として機能していたことの意味は大きい。
(9)いま新自由主義に反対している人のなかにも「田中角栄は案外よかったね」と言う人がいる。これはおそらく、東京一極集中とか、地方切り捨てのことが問題視される文脈での評価だ。
(10)「田園都市国家構想」を掲げた大平正芳も、コミュニティの維持を重視していた。
家族の相互扶助、個人の自助努力を強調して、政府の役割を限定しようとする傾向もが彼を始め、当時の政治家たちに共通している。
これは自己責任という形で今日にもつながる問題だ。
大平が掲げたのは、あくまで「家族基盤の充実」だ。大平だけでなく、さかのぼれば高橋是清、池田勇人なども、社会保障の「行き過ぎ」、福祉による「甘やかし」を警戒していた。池田は、「貧乏人を救うんだという考え方よりも、立ち上がらせてやるという考え方」が大事だとハッキリ言っている。
(11)「働かざるもの食うべからず」とレーニンが言ったとき、彼は資本家階級のことを念頭に置いていた。
ところが、日本人にとっては、働かなくて貧しくなった人間は飯を食うな、という意味を持つ。この「勤労」観がどこに由来するかは重要な問題だ。
日本社会において「働く」ことはどう位置づけられているのか。自己責任論とも関係してくるが、「保守対革新」といった単純な構図では片付けられない深いテーマだ。
(12)土建国家のシステムは、毎年減税して、国民の貯蓄率をどんどん上げていくことを前提にしていた。高度成長が止まり、その仕組みはいったん揺らぐものの、今度は政府が借金して無理やり成長を生み出していくことで、この循環を維持しようとした。
土建国家が解体期に差しかかる1998年が「象徴的な転換の年」だった。
1997年のアジア通貨危機のあと、山一證券や拓銀が破綻し、翌1998年には、長銀に公的資金が注入されたり、経済は非常に混乱していた。
投資のグローバル化がいわれる中、金融ビッグバンの一環として、この頃から国際会計基準も導入された。
(13)1970年代は、農村が自民党の強固な支持基盤だった。だから、田中角栄たちは、いかに都市への人口流入を抑え、地方に人を誘導するかを考え、人医療の無料化や5万円年金の導入などの対策を打った。
ところが、1990年代後半から、東京への流出が大きく進み、無党派層とか浮動票が政治を動かすようになる。2005年頃には、三大都市圏の人口が5割を超えている。
自分の老後に明るい見通しを持っているか、という質問には、「全くそうではない」「どちらかといえばそうではない」という回答者の割合は、
1978年 43.8%
1999年 80%超
何が一番心配かという質問に必ず出てくるのは年金。
政府が取り組むべき政策も、年金、子育て、雇用、医療・・・・の順だ。【国民生活選好度調査(内閣府)】
少子高齢化、女性の社会進出という社会構造の変化とともに、財政ニーズは公共投資から、社会保障へと明確に変化した。
国民のニーズと、土建国家政府が提供するものにミスマッチが生じた。
(14)1998年は、日本経済の環境が劇的に変わった。国際会計基準のもと、外国人持ち株比率が増え、投資家がキャッシュフローを重視し始める。企業は負債を減らす「健全経営」を追求するが、アジア通貨危機後の苦境のなかで、企業ができたのは経費削減だけだった。政府も労働規制緩和でこれを支えた。
そこで1997-98年を境に、経常利益が増大していく一方、経常利益に占める人件費の割合は減少に転じた。人件費の削減により企業収益が支えられる構造が定着していった。
(15)企業が内部留保を溜め込んで、設備投資もしない、給料としても還元しない、というのは異常な事態だ。
企業が、企業自身のためにカネを確保する。経済成長期とはまったく異なるタイプの「企業主義」だ。
企業が貯蓄超過に転じて、その分は結局、銀行を媒介にして国債に流れていった。
(16)マクロで見ると人件費が削られ、労働者に負担を強いることで企業に貯蓄が生まれ、これが国債価格を支えた。
異常な事態ではあるが、これが崩れると今度は国家財政の破綻に結びつく問題になってしまう。
キャッシュフロー経営への転換以来、多くの企業は、賃金に加えて、法定外福利厚生費を抑制していった。社宅や保養施設をもつ企業は、もうほとんどない。
賃金が減らされても、最終的には企業が潤えば労働者も潤うと、労働者は資本に協調的な態度をとってきた。成長時代の記憶に引きずられたか。
□井出英策×佐々木実「「土建国家」と規制改革の果てから」(「世界」2014年8月号)
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【参考】
「【土建国家】の定義、一つめの分岐点 ~戦後史の見直し~」
1965年を境に、急激に三大都市圏への人口流入が減るが、この時期は地方への公共事業を増やした時期だ。その後も、公共事業の増減は、人口移動の波に大きな影響を及ぼしている。
建設業衰退の結果、寄付が集まらず、花火大会や祭りを開催できなくなった地域も多い。
建設業が地域コミュニティの紐帯として機能していたことの意味は大きい。
(9)いま新自由主義に反対している人のなかにも「田中角栄は案外よかったね」と言う人がいる。これはおそらく、東京一極集中とか、地方切り捨てのことが問題視される文脈での評価だ。
(10)「田園都市国家構想」を掲げた大平正芳も、コミュニティの維持を重視していた。
家族の相互扶助、個人の自助努力を強調して、政府の役割を限定しようとする傾向もが彼を始め、当時の政治家たちに共通している。
これは自己責任という形で今日にもつながる問題だ。
大平が掲げたのは、あくまで「家族基盤の充実」だ。大平だけでなく、さかのぼれば高橋是清、池田勇人なども、社会保障の「行き過ぎ」、福祉による「甘やかし」を警戒していた。池田は、「貧乏人を救うんだという考え方よりも、立ち上がらせてやるという考え方」が大事だとハッキリ言っている。
(11)「働かざるもの食うべからず」とレーニンが言ったとき、彼は資本家階級のことを念頭に置いていた。
ところが、日本人にとっては、働かなくて貧しくなった人間は飯を食うな、という意味を持つ。この「勤労」観がどこに由来するかは重要な問題だ。
日本社会において「働く」ことはどう位置づけられているのか。自己責任論とも関係してくるが、「保守対革新」といった単純な構図では片付けられない深いテーマだ。
(12)土建国家のシステムは、毎年減税して、国民の貯蓄率をどんどん上げていくことを前提にしていた。高度成長が止まり、その仕組みはいったん揺らぐものの、今度は政府が借金して無理やり成長を生み出していくことで、この循環を維持しようとした。
土建国家が解体期に差しかかる1998年が「象徴的な転換の年」だった。
1997年のアジア通貨危機のあと、山一證券や拓銀が破綻し、翌1998年には、長銀に公的資金が注入されたり、経済は非常に混乱していた。
投資のグローバル化がいわれる中、金融ビッグバンの一環として、この頃から国際会計基準も導入された。
(13)1970年代は、農村が自民党の強固な支持基盤だった。だから、田中角栄たちは、いかに都市への人口流入を抑え、地方に人を誘導するかを考え、人医療の無料化や5万円年金の導入などの対策を打った。
ところが、1990年代後半から、東京への流出が大きく進み、無党派層とか浮動票が政治を動かすようになる。2005年頃には、三大都市圏の人口が5割を超えている。
自分の老後に明るい見通しを持っているか、という質問には、「全くそうではない」「どちらかといえばそうではない」という回答者の割合は、
1978年 43.8%
1999年 80%超
何が一番心配かという質問に必ず出てくるのは年金。
政府が取り組むべき政策も、年金、子育て、雇用、医療・・・・の順だ。【国民生活選好度調査(内閣府)】
少子高齢化、女性の社会進出という社会構造の変化とともに、財政ニーズは公共投資から、社会保障へと明確に変化した。
国民のニーズと、土建国家政府が提供するものにミスマッチが生じた。
(14)1998年は、日本経済の環境が劇的に変わった。国際会計基準のもと、外国人持ち株比率が増え、投資家がキャッシュフローを重視し始める。企業は負債を減らす「健全経営」を追求するが、アジア通貨危機後の苦境のなかで、企業ができたのは経費削減だけだった。政府も労働規制緩和でこれを支えた。
そこで1997-98年を境に、経常利益が増大していく一方、経常利益に占める人件費の割合は減少に転じた。人件費の削減により企業収益が支えられる構造が定着していった。
(15)企業が内部留保を溜め込んで、設備投資もしない、給料としても還元しない、というのは異常な事態だ。
企業が、企業自身のためにカネを確保する。経済成長期とはまったく異なるタイプの「企業主義」だ。
企業が貯蓄超過に転じて、その分は結局、銀行を媒介にして国債に流れていった。
(16)マクロで見ると人件費が削られ、労働者に負担を強いることで企業に貯蓄が生まれ、これが国債価格を支えた。
異常な事態ではあるが、これが崩れると今度は国家財政の破綻に結びつく問題になってしまう。
キャッシュフロー経営への転換以来、多くの企業は、賃金に加えて、法定外福利厚生費を抑制していった。社宅や保養施設をもつ企業は、もうほとんどない。
賃金が減らされても、最終的には企業が潤えば労働者も潤うと、労働者は資本に協調的な態度をとってきた。成長時代の記憶に引きずられたか。
□井出英策×佐々木実「「土建国家」と規制改革の果てから」(「世界」2014年8月号)
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【参考】
「【土建国家】の定義、一つめの分岐点 ~戦後史の見直し~」