円の外へ

20070121開設/中学高校国語授業指導案/中学校学級経営案/発達症対応/生活指導/行事委員会指導

義務はあると思う

2010-10-17 17:45:46 | blog映画Diving
2010/10/17upわかる目次
義務はあると思う
(引用)

リンカーンはやっと回復した時次のようなことを話した。

「僕には、死んでいく事は少しも怖くない」

「いや、今自然に死んでゆけるのだったら、どんなにうれしいか、とまで思っている。」

「だが、僕はこうして人間に生まれてきたんだから、

やはり、何か生きがいが感じられるまで生きている義務はあると思う」

2008-08-25 11:32
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映画・ココロの星

2010-10-16 18:58:44 | blog映画Diving
2010/10/16upわかる目次
映画・ココロの星
「霊安室で」をブログ村のたくさんの方に読んで頂き感謝しています。
母のことを覚えている人間も少なくなりました。
「ぼくのせい」「向こうへ行ったらいい酒を」は三年越しの連作です。
(三年越しは勘違いでした・二年越し、三連作です)
知っていただくことは供養になります。ありがとうございました。
(2010・10・16追記)

なんで生きなくちゃならないかなんて

誰にもわかんないよ。

でももっと生きていたいよ。

あたしだって必死なんだよ。

(映画『Mayu・ココロの星』)


2008-07-21 19:16
映画「Mayu-ココロの星-」全国配給委員会
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向こうへ行ったらいい酒を

2010-10-15 04:10:21 | blog映画Diving
2010/10/15up全ページ目次
向こうへ行ったらいい酒を

2010年7月9日
今日で母が亡くなってから32年経つ。

母は英文タイピストだった。
当時は相当ハイカラな仕事だったと思う。
米軍関係の事務所か何かでタイプを打っていたらしい。

ワープロと違ってタイプは一字でも打ち間違えると一枚全部やり直しになる。
しかも英文だ。
もちろんブラインドタッチだっただろう。
「おかあさんは間違えないで打てるんだよ」
と自慢していた。
そのときは分からなかったが、かなりイケテタ。

会社にはアメリカ人が多かったらしいから母は英語も話せた。
一度電話で会社の人と英語でしゃべっているのを聞いた。
何か冗談を交わしたらしく英語で笑っていた。(英語で笑うわけはない)
片言の英語だけではジョークを言い合って笑うことはできないはずだ。
これもカッコよかった。
母はよく
「アメリカ人は冗談が好きでいつも笑わせるんだよ」
と言っていた。
入院中、病院の公衆電話で会社に英語で電話するのを、周りの人は目を丸くしてみていた。

それから字がとてもうまかった。
センスが良かった。
僕も習字が好きで、習いたいと言ったら、
「字なんか大人になったら自然にうまくなるからいい」
と断られた。
それは大きな間違いだが、母は自分ができるので本気でそう思っていたのだろう。

向こうへ行ったら、いい酒を飲ませてあげたい。

2010-07-09 18:32
「ぼくのせい」 
2008年9月「霊安室で」
2010年7月「向こうへ行ったらいい酒を」
コメント (4)
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霊安室で

2010-10-14 17:16:09 | blog映画Diving
2010/10/14up全ページ目次
霊安室で
作成日2008-09-17 20:52
母が亡くなり病理解剖がすんだあと、遺体は病院地下の霊安室に寝かされた。
木の台の上に横たわる遺体のまわりに数本のろうそくと少しの花があったと思う。
昼間だったがコンクリートの壁に囲まれた霊安室は狭く殺風景だった。

葬儀屋か何かを待たなければならない。
そのあいだ親族が付き添わねばならない。
いちばんひまだったからか息子だからかわからないが、僕だけが霊安室に残った。
コンクリートの壁際のいすに座った。
僕の左手に遺体が寝かされていた。
腰ほどの高さの台に母は寝かされていた。
遺体は白装束で顔の上に布がかぶせられていたと思う。
その程度の施しを解剖のあと病院で行なったのだろう。

ろうそくとわずかな明かりの中で母の遺体と花と木の台の中で僕は待った。
とにかく気味悪かった。
どうしてよいかわからなかった。
今ならいろんな仕様があっただろう。
僕はただ座って葬儀屋か何かが来るのを待った。

葬儀屋か何かというのは、一体誰が来ることになっていたのか僕には思い出せないからだ。
少なくとも、『おくりびと』に出てくる素敵な仕事をなさる納棺師でなかったのはまちがいない。
地下の霊安室の中で背もたれのない椅子に座ったまま僕は何もできなかった。
何も考えられなかった。
ただ疲れきっていた。
亡くなったのは未明で、まだ暗いうちに起こされて僕は病院に来ていた。
神経はとんがって眠さはなかった。

霊安室に入ってきたのは男の人だった。
小柄な人だったと思う。
遺体に向かって拝んだりしたのかもしれない。よく覚えていない。

その男の人は何かしらの段取りを終えた。
何をしたのかまったく記憶にない。
ぼーっと見ていたのだろう。
自分の母親が昨日死んで解剖されて、ぽつんと一人きりでコンクリートの部屋の中の木の台の上にいたのに僕は何もできなかった。
愚鈍だった。
愚かで低能だった。

棺が白木だったのは覚えている。
白木の棺をその男性が一人で運んできたのか、もともと霊安室に置かれてあったのか覚えていない。
彼は支度が住むと、どんな支度だったか覚えてもいないが、手伝ってほしいと言った。
ろうそくと蛍光灯の薄暗い霊安室の中でそのときやっと僕は立ち上がった、のだと思う。
「足を持ってください」
と彼は言った。
どういうことかと僕は思った。
彼は僕の腰ほどの高さの木の台から、遺体を白木の棺の中に移そうとしているのだった。
今思い出したが、母の頭は奥に向かって左側にあった。
彼は自分が母の頭の側を持ち上げるのだと言ったはずだ。
だから、僕に足を持てと言っているのだった。
僕は言われるままに立ち上がり数歩歩いた。

母の足元に回って見おろすと白装束の下にすねから下がのぞいていた。
「足首を持って」
と男の人は言ったのだと思う。
僕は最初遺体の足首をつかみそこねた。
「もっとしっかり持って」
と言われたはずだ。
僕は右手で遺体の左足首を、左手で右足首を握った。
冷たかった。
細くて冷たい足だったが思いのほか重さがあった。
「よいしょ」
と男の人は言ったかもしれない。
僕は死人の足首を持っているのがもう気持ち悪くて気持ち悪くてたまらなかった。
気持ち悪いのに力を入れて握らないと母を隣の棺に運ぶことはできなかった。
足首をぎゅっと握って腰の高さの台から棺の箱の中に入れるためには、一度持ち上げ箱の底に収まるまで力を抜くことはできなかった。

自分の母親なのに。
僕は怖がって触るのもいやだというように遺体を扱ったのだ。
なんという愚かさ。
なんと言う無情か。
母は、葬儀屋か何かの男性と、馬鹿で鈍感な息子にぞんざいに扱われて棺に収まった。

棺はその後、おじの家に運ばれた。
母と住んでいた借家は六畳ひと間で狭すぎた。
集会所や小ぎれいな葬儀所がある時代ではなかった。
多くの家で遺体は自宅で通夜と告別式を迎えたはずである。

僕はこの出来事をはじめて文章にした。
そのときの怖ろしさを滑稽に友人に語ったことはある。
だが、親族に話したことは一度もない。
その、僕が高校2年生だった年からちょうど30年がたった。

2008年9月
「ぼくのせい」

2008年9月
「霊安室で」

2010年7月
「向こうへ行ったらいい酒を」
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ぼくのせい

2010-10-14 05:56:00 | blog映画Diving
2010/10/14up全ページ目次
ぼくのせい

ぼく、ほんとはまだ子供なんです。

きのうの夜テレビを見てたら、死んだ人が見える男の子の映画がやっていました。
ぼくとおんなじくらいの男の子が出ていました。
途中でテレビが真っ黒になって、こわれたのかと思った。
そしたら、真っ黒いテレビの中に、その男の子の顔だけうつったんだ。
じっとぼくを見てる。
テレビじゃないみたいで変だった。
その子はぼくに話しかけた。

「きみのお母さん死ぬんだよ」

「・・・え」

「死んじゃうんだ」

「うそだ」

「ほんとだよ。でも、今すぐじゃないよ」

「いつ」

「あと十年くらい」

「それじゃあ、ぼくまだ大人になってないよ」

「そうだよ」

「なんで死ぬの」

「病気。すごく痛い病気。君が今テレビで見たみたいに、いっぱい吐くんだ」

「なおんないの」

「うん」

「うそだよ」

「何回も手術するんだ。でも助からない」

「そんなことわかんないよ」

「きみはお母さんがずっと入院してても全然おみまいしないんだよ」

「だから死んじゃうの」

「ちがうよ。でも大人になってからこうかいすることことになるんだ」

「こうかいってなに」

「まいにちおみまいしとけばよかったっ、て思うことさ」

「じゃあ、おみまいするよ」

「きみのお母さん、七月九日に死ぬんだよ」

「じゃあ、あしたじゃん。あした死ぬの」

「そうさ。十年後のね。あしたの朝早く。朝の四時くらいだよ」

「そんなこともわかるの」

「うん」

「どこで死ぬの」

「病院だよ」

「ならお医者さんがいるじゃないか」

「でもだめなんだ。最後の日までうんと痛がるんだよ」

「なんで。なんでだよ。お母さん、なんにもわるいことなんかしてないよ」

「でも死ぬんだよ」

「なんでだよ。お母さん毎日働いてるんだよ。ぼくがおきる前に出て行くんだ。朝ごはんだってちゃんと作るよ」

「知ってる」

「帰ってきたら夜ごはんだってちゃんと作るよ。そのあとせんたくもしてる。うち、せんたくきないから全部手で洗うんだよ。いいことばかりじゃないか。なんにも悪いことなんかしてないよ」

「知ってる。でも、きみはあんまり手つだわないだろ」

「じゃあ、ぼくのせい」

「そうじゃないけど。きみのお母さんはたぶんつかれて病気になるんだ」

「わるいことしなくても」

「そうだよ。きみは今もそうだけど、お母さんが死ぬまであんまりやさしくしてあげないんだ。だから、つかれちゃうんだよ」

「なんでさ。だってぼくまだ子供だよ」

「子供だってやさしくしてあげることはできるよ」

「だからって、痛い病気で死ななくたっていいじゃないか」

「わからない。でも、いちばん痛い病気なんだ。お母さんは、のたうちまわって死ぬんだよ」

「わかんないよ」

「君はそれを目の前で見るんだ」

「いやだ」

「七月九日だよ。でも、朝早くだから八日とまちがえちゃダメだよ」

「やだよ」

「十年後だからね。忘れないでね」

ぶちって音がして、またテレビが真っ黒になった。
そのあとは、よくおぼえていない。
2008-07-05 20:32
「ぼくのせい」 
2008年9月「霊安室で」
2010年7月「向こうへ行ったらいい酒を」
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今日も責任果たせなかった

2010-10-10 05:41:45 | blog映画Diving
2010/10/10upわかる目次
今日も責任果たせなかった

銀行に口座を作った。
受付の女性がきれいで笑顔のかわいらしい方だった。
できあがった通帳を受け取るとき、ぼくは小さく、
「新規受け付け担当の方は、いちばん美人の人にするんですね」
と言い、
「今日一日で出会った中で、あなたがいちばん美人です」
と付け加えて、女性がどんな笑顔を見せてくれるか想像した。
でも、言えなかった。
友人のジゴロは、いい女とすれ違うと踝を返して走り寄って言う。
「あなたは今日あった人の中でいちばん美人です。ただそれだけです」

戻ってくると彼はぼくに言う。
「**さん。いい女に、いい女だって言ったら、
たったひと言のせいで、その人は、今日一日幸せな気分で過ごせるんだわ。
男の責任だよ。**さん」

今日も男の責任を果たせなかった。
ハァ。
2008-07-05 20:22
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奴隷状態の幸福

2010-10-09 23:33:09 | blog映画Diving
2010/10/9upわかる目次
奴隷状態の幸福
「自由の空気は臆病者にはたえられない」
という。

自由と孤独は隣りあわせである。
孤独は恐怖だ。
だが、二十年間来僕は、寂しいという感情を持ったことがない。
寂しいとはどういうことなのか僕にはわからない。
ある感情が死んでいるのだ。

「奴隷状態の幸福」という言葉は、『O嬢の物語』から生まれた(はずだ)。
自由よりも縛られることに快感を覚える人が少なからずいるということだ。
僕の周りにもいる。

「ひも理論」というのもある。
「ひも」の男性は相手の女性に暴力をふるう。ふるいつづける。
殴りつづけて、ほんのときたまやわらかい言葉と行為でねぎらう。
女性はこう思う。
「ほんとはこの人、優しい人なんだわ。」
このとき、普段の暴力が効果を表す。
日常の苦痛がいっきに快感に変わる。
これも一種の「奴隷状態の幸福」といえる。

僕は孤独だが奴隷の生活は望まない。

世界中の国家の歌詞を集めたホームページがある。(URLなくしちゃった)
ざっと見て最も多い言葉は「自由」だった。(ちゃんと数えてない)
ひとは何より自由を望むということだ。
自由のない国家が過去多く、現在も存在するということだ。

自由の空気は臆病者には耐えられない。
毎日ぶるぶる震えておびえながら、その言葉を唱えて耐えている。
2010-05-03 18:02
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いいんだぜ

2010-10-09 05:37:48 | blog映画Diving
2010/10/9upわかる目次
いいんだぜ

宇宙は死に満ちている。
暗黒と死に満たされた宇宙の中にただ一点、生命の星がある。
それが地球だ。
果てしない死の世界で、地球だけに命と思考と感情がある。
というようなことを言ったのは、確か浦沢直樹氏だった。

僕は、中島らもを尊敬する。
(就職試験で言ったら、たぶん不合格だ)
中島らもの思想と文学を尊敬する。
中島らもがギターで弾き語る『いいんだぜ』は、NHK日曜夜の大河ドラマ主題歌にしてほしい。
中島らもは、三上寛氏と酒を飲んだあと階段から転げ落ちて亡くなった。
事故だと言われている。
だが、僕は勝手に自殺だと思っている。
中島らもが酒に酔って、階段から落ちるはずがない。
僕も予定では尊敬する中島らもにならい酒を飲み、事故で階段から落ちて逝く。
だが、最近胃炎で一滴も飲めなくなったのでどうしたものかと思っている。

小説家・金城一紀氏を尊敬する。(僕のバイブルだ)
ピクサー(映画会社)を尊敬する。(いつも人間の素敵なところを探してくれる)
漫画家・水木しげる氏を尊敬する。(世に媚びない努力家だ)
浅田次郎氏を尊敬していた。(浅田氏は直木賞を取った途端だめになってしまった)
弘兼憲史氏をけっこう尊敬する。(一時テレビでえらそうに喋ってしまったのが残念)
小説家・瀬尾まいこ氏を尊敬する。(ほっとする)

どのかたも、暗闇の中に一点の光を示してくれる。
光は小さく微かだ。
微かでよい。
微かな光は才能を持ち、目を凝らさなければ見つけることが出来ない。
それほど、日本の闇は深い。
才能ある人間の努力で、僕は微かな光を見せてもらうことが出来る。
ありがたいことだ。
2010-08-25 00:41
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天才の死

2010-10-08 17:34:53 | blog映画Diving
2010/10/8upわかる目次
天才の死

死んで心に留めた有名人は二人だけいる。
松田優作と鶴田浩二だ。
ぼくの生きた時代で、松田優作以上にカッコいい俳優は存在しない。
鶴田浩二は、ぼくの生き方に最も影響を与えたテレビドラマの主役だった。
二人以外の生き死にに興味はなかった。

作家の中島らもが、二年前に死んだ。
手元の単行本によれば、
「2004年7月26日死去。享年52歳。」
であった。
続けて引用すれば、
「1952年、兵庫県尼崎生まれ。大阪芸術大学、放送学科卒。
1992年『今夜すべてのバーで』で吉川英治文学新人賞、
1994年『ガダラの豚』で日本推理作家協会賞(長編部門)受賞」

『今夜すべてのバーで』は十数回読んだ。
42歳にして、日本の歴史に残る二つの作品を彼は書き終えた。
10年後の52歳で、酒に酔い階段から転げ落ちて死んだ。

天才であった。
天才は多くはない。
自分の生きた同じとしつきに生きた天才が存在すること自体稀だろう。
中島らもはその中の一人で、ぼくを救い、ぼくの寿命を何年か延ばしてくれた。
06年10月27日・金
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あっちゃんとお母さん

2010-10-08 05:00:52 | blog映画Diving
2010/10/8upわかる目次
あっちゃんとお母さん
 
友人のあっちゃん(仮名)から、彼女の母親の話を聞いた。
実話である。
あっちゃんは言った。
「今考えると、うちのお母さん、すごかったわ」

ある女の子がいました。
名前をあっちゃんといいます。
小学校の時、あっちゃんはいじめっ子でした。
気が強くて体も大きかったあっちゃんに誰もかないませんでした。

中学校であっちゃんは、バスケット部に入りました。
あっちゃんはバスケがとても上手でした。
二年生になって、あっちゃんはいじめられるようになりました。
ある日、帰るとき、げた箱の運動ぐつに水が入っていました。
次の日は、ゴミがつめこまれていました。
また次の日は、画びょうが入っていました。
あっちゃんは、学校に行くのがいやになりました。
それで、お母さんに相談しました。
「わたし、もう学校に行くのいやや」
すると、お母さんは静かに言ったそうです。
「あっちゃん。いじめられてよかったねえ」
「明日から学校、行かなくてええよ」
「二階で勉強してなさい」
「大人になるんだからね」
あっちゃんは、なんてひどいことを言うんだろうと思いました。
自分がいじめられてこんなに苦しんでいるのに
「いじめられてよかった」
と言うなんて。

次の日から一ヶ月間、あっちゃんは、学校を休みました。
けれども、また学校に行くようになっても、いじめは続きました。
中学を卒業して高校に入るといろんな人が集まってくるので、いじめはなくなりました。
あっちゃんはそのとき不思議な感覚を持ったそうです。
「わたし、なんだか、いじめられてる人の気持ちが分かるようになったわ」

お母さんは、あっちゃんが小学校の時いじめっ子だったのを知っていました。
あっちゃんがいじめられたとき
「いじめられてよかったな。大人になるんだから」
とお母さんは言いました。
それは、あっちゃんに、ひとの気持ちが分かるようになってほしかったからだったのです。
2008-07-05 20:20
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