■ 国指定史跡 新田荘遺跡 江田館跡 ≪9/11≫

城 名:江田館(えだやかた)
別 名:-
形 態:平城
時 期:鎌倉時代から南北朝時代と推定
築城主:江田頼有
城 主:江田行義・矢内四郎左衛門
遺 構:郭・土塁・堀
指 定:国指定史跡(新田荘遺跡 江田館跡 平成12年〔2000〕11月1日指定)
現 状:館跡
所在地:群馬県太田市新田上江田町(旧新田郡新田町)
新田荘の史跡巡りで、平成22年(2010)4月以来、約8年半ぶりに「江田館跡」を訪ねてみました。
最近は、城館跡巡りをしても遺構のない所ばかりでしたので、はっきりとした遺構がのこる城館跡はやはりワクワクします。

虎口土橋手前に建つ「「国指定史跡 新田荘遺跡 江 田 館 跡」の標柱

「国指定史跡 新田荘遺跡 江 田 館 跡」説明板 写真のままでは読めませんので説明文を転記します。
江田館跡は、反町館跡とともに太田市の中世平城の代表的な遺構で、地元で「堀の内」と呼ばれる本丸跡は、東西約80m、
南北約100mの土塁と堀を巡らせています。
虎口(出入口)は南西面と東面にあり、土橋となっています。外郭には、本丸の西と南を「カギ」型に囲んで、「二の丸」が
あります。本丸から北東に向って、「黒沢屋敷」、「毛呂屋敷」、「柿沼屋敷」と呼ばれる屋敷跡があり、土塁と堀が残存して
います。
江田館は、江田行義の館跡と伝えられています。行義は、新田義重の子・義季の四世の孫で、新田義貞の鎌倉北条氏討伐に参
加し、極楽寺坂口の大将として軍功をたてました。西国を転戦後、備後国(広島県)で農業を営み、以後足利氏の目をしのび、
9代にわたり姓を「守下」に改めていましたが、10代目の大膳が、文禄年間(1593頃)祖先のこの地に移転してきたと言
われています。戦国時代には、反町館跡とともに金山城の出城として改修され、金山城主由良氏の四天王の一人、矢内四郎左衛
門の居城になりました。天正年間には小田原北条氏が金山城攻略に先立ってこの出城を奪い、金山城攻撃の拠点としました。そ
の後、後北条氏滅亡(天正18ー1590年)と共に廃城となりました。
本丸中央の土塁の中には義貞様と言われる石宮があります。江田子孫が代々義貞、行義を合祀し、氏神としたもので、明治6
年(1873)新田一族末裔達が太田金山山頂にこれを祀り、社殿を造営して新
田神社としました。
地域住民が、先祖の地として館跡を保存に協力してきたため、中世豪族の館跡として規模、構造ともに原形を良く残していま
す。

江田館復元図

江田館跡図 ※加筆してあります

主郭(本丸)を南側から北方を 左:西側土塁 中央:北側土塁 右:東側土塁

主郭(本丸)を南側から北西方向を

主郭(本丸)を南側から北東方向を

主郭(本丸)を南東側から北西方向を 左側が虎口

土塁の上を時計回りで歩いてみます 西側土塁上の「折り」の手前から堀を

西側土塁の「折り」あたり

西側土塁上を南方から北方に

西側土塁上を北隅から南方に 上の写真の逆方向

土塁北西隅にある石祠

北側土塁上を西方から東方に

北側土塁上の途中から西方を振り返る

北側土塁上から北側堀を見下ろして

北側土塁上の中央にある「義貞様(ぎていさま)」と言われる石宮

再び北側土塁上から北東隅方向に

土塁上北東隅から西方に 木の根元に「義貞様」の石宮が見えます

東側土塁上から南方を 折りの状態がよくわかります

東側土塁上を南隅から北方に

南側土塁(虎口東側部分) 写真右側が虎口

次に、堀の外側を時計と逆回りに歩いてみます 南側の虎口土塁東側の堀の状況

南東隅の堀と土塁

東側の堀と土塁を南方から北方に

東側の堀と土塁を北方から南方に 「折り」が分ります 上の写真の逆方向

東側堀の外側北寄りにある「黒沢屋敷」の土塁

東側の堀と土塁を北方から南方に

北側の堀と土塁を北東隅から西方に

北側土塁上に見える「義貞様」の石宮

北側の堀と土塁を北西隅から東方に

土塁上北東隅にある石祠

西側の堀と土塁を北方から南方に 正面に「折り」が見えます 右側の高所も郭跡(二の丸)のようです

西側の堀と土塁を南方(折りの手前)から北方に

西側の折りの部分の堀と土塁

西側の堀と土塁を南方(南西隅の手前)から北方に

南西隅の堀と土塁
一応、2度目の訪問ではありますが、3回(3日)も行く羽目になってしまいました。1回(1日)では用が足りずに2回、
3回と行ってしまいましたが、あくまでカウントは3回(3日)で1度扱いです。無論3回とも写真は撮ったのですが、ここ
ではそのうちの、自分的に納得いくものを使いました。
散策日:平成30年(2018)10月2日(火)ほか

城 名:江田館(えだやかた)
別 名:-
形 態:平城
時 期:鎌倉時代から南北朝時代と推定
築城主:江田頼有
城 主:江田行義・矢内四郎左衛門
遺 構:郭・土塁・堀
指 定:国指定史跡(新田荘遺跡 江田館跡 平成12年〔2000〕11月1日指定)
現 状:館跡
所在地:群馬県太田市新田上江田町(旧新田郡新田町)
新田荘の史跡巡りで、平成22年(2010)4月以来、約8年半ぶりに「江田館跡」を訪ねてみました。
最近は、城館跡巡りをしても遺構のない所ばかりでしたので、はっきりとした遺構がのこる城館跡はやはりワクワクします。

虎口土橋手前に建つ「「国指定史跡 新田荘遺跡 江 田 館 跡」の標柱

「国指定史跡 新田荘遺跡 江 田 館 跡」説明板 写真のままでは読めませんので説明文を転記します。
江田館跡は、反町館跡とともに太田市の中世平城の代表的な遺構で、地元で「堀の内」と呼ばれる本丸跡は、東西約80m、
南北約100mの土塁と堀を巡らせています。
虎口(出入口)は南西面と東面にあり、土橋となっています。外郭には、本丸の西と南を「カギ」型に囲んで、「二の丸」が
あります。本丸から北東に向って、「黒沢屋敷」、「毛呂屋敷」、「柿沼屋敷」と呼ばれる屋敷跡があり、土塁と堀が残存して
います。
江田館は、江田行義の館跡と伝えられています。行義は、新田義重の子・義季の四世の孫で、新田義貞の鎌倉北条氏討伐に参
加し、極楽寺坂口の大将として軍功をたてました。西国を転戦後、備後国(広島県)で農業を営み、以後足利氏の目をしのび、
9代にわたり姓を「守下」に改めていましたが、10代目の大膳が、文禄年間(1593頃)祖先のこの地に移転してきたと言
われています。戦国時代には、反町館跡とともに金山城の出城として改修され、金山城主由良氏の四天王の一人、矢内四郎左衛
門の居城になりました。天正年間には小田原北条氏が金山城攻略に先立ってこの出城を奪い、金山城攻撃の拠点としました。そ
の後、後北条氏滅亡(天正18ー1590年)と共に廃城となりました。
本丸中央の土塁の中には義貞様と言われる石宮があります。江田子孫が代々義貞、行義を合祀し、氏神としたもので、明治6
年(1873)新田一族末裔達が太田金山山頂にこれを祀り、社殿を造営して新
田神社としました。
地域住民が、先祖の地として館跡を保存に協力してきたため、中世豪族の館跡として規模、構造ともに原形を良く残していま
す。

江田館復元図

江田館跡図 ※加筆してあります

主郭(本丸)を南側から北方を 左:西側土塁 中央:北側土塁 右:東側土塁

主郭(本丸)を南側から北西方向を

主郭(本丸)を南側から北東方向を

主郭(本丸)を南東側から北西方向を 左側が虎口

土塁の上を時計回りで歩いてみます 西側土塁上の「折り」の手前から堀を

西側土塁の「折り」あたり

西側土塁上を南方から北方に

西側土塁上を北隅から南方に 上の写真の逆方向

土塁北西隅にある石祠

北側土塁上を西方から東方に

北側土塁上の途中から西方を振り返る

北側土塁上から北側堀を見下ろして

北側土塁上の中央にある「義貞様(ぎていさま)」と言われる石宮

再び北側土塁上から北東隅方向に

土塁上北東隅から西方に 木の根元に「義貞様」の石宮が見えます

東側土塁上から南方を 折りの状態がよくわかります

東側土塁上を南隅から北方に

南側土塁(虎口東側部分) 写真右側が虎口

次に、堀の外側を時計と逆回りに歩いてみます 南側の虎口土塁東側の堀の状況

南東隅の堀と土塁

東側の堀と土塁を南方から北方に

東側の堀と土塁を北方から南方に 「折り」が分ります 上の写真の逆方向

東側堀の外側北寄りにある「黒沢屋敷」の土塁

東側の堀と土塁を北方から南方に

北側の堀と土塁を北東隅から西方に

北側土塁上に見える「義貞様」の石宮

北側の堀と土塁を北西隅から東方に

土塁上北東隅にある石祠

西側の堀と土塁を北方から南方に 正面に「折り」が見えます 右側の高所も郭跡(二の丸)のようです

西側の堀と土塁を南方(折りの手前)から北方に

西側の折りの部分の堀と土塁

西側の堀と土塁を南方(南西隅の手前)から北方に

南西隅の堀と土塁
一応、2度目の訪問ではありますが、3回(3日)も行く羽目になってしまいました。1回(1日)では用が足りずに2回、
3回と行ってしまいましたが、あくまでカウントは3回(3日)で1度扱いです。無論3回とも写真は撮ったのですが、ここ
ではそのうちの、自分的に納得いくものを使いました。
散策日:平成30年(2018)10月2日(火)ほか