◇延喜式内社〔論社〕◇
社 号:熊野大神社(くまの だいじんじゃ)
別 称:ー
御祭神:・伊邪那美命(いざなみのみこと)
・速玉男命(はやたまおのみこと)
・事解男命(ことさかのおのみこと)
創 建:延長5年(927年)この地に枇杷の木を棟木として小祠を建て創建したと社記では伝える
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧郷社
例 祭:10月15日 秋季例大祭
指 定:深谷市指定有形文化財〔名称:熊野大神社本殿 昭和34年(1959)11月3日指定〕
鎮座地:埼玉県深谷市東方1708
深谷市東方に鎮座する「熊野大神社」を訪ねてみました。
延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている武蔵国幡羅郡4座のひとつ「白髪神社」
の論社です。
社記によると『延長五年(1927年)に枇杷の木を棟木にして小祠を建て上野国碓氷郡熊野本宮より
奉遷し東方村と号す』とあるそうです。
本殿は深谷上杉氏の宿老であった秋元但馬守景朝・越中守長朝父子によって造営されたと言います。
文政2年(1819)と平成11年(1999)の大修理を経て今日にいたっているとのことです。
『秋元氏館』 ⇐ ブログ記事にリンク
『一の鳥居』 右側の社号標には『郷社 熊野大神社』と刻まれている
但し、旧社格である「郷社」は一応消した形にしてあります
「一の鳥居」をくぐって約300mの参道に入ると両側に奉納された三十九基の石灯籠が並ぶ
写真中央部あたりで道路が横切っています その先に「二の鳥居」
『二の鳥居』
「二の鳥居」扁額 下三文字〈大神社〉くらいしか読めません
更に進むと再び道路が横切っていますがその先に玉垣に囲まれた『熊野大神社』
「三の鳥居」右側に樹齢350年のご神木の大欅
『三の鳥居』
「三の鳥居」扁額 【熊野大神社】と揮毫
境内の玉垣際に設置されている「熊野大神社」説明板
秋元長朝は、豊臣秀吉による小田原征伐によって深谷上杉氏の所領が奪われた後はしばらくは隠棲
していた。その後、徳川家康の家臣となり、上野国惣社に所領を与えられ1万石の大名にまで出世
しました。その子孫は更に累進し、喬知の代には老中・6万石の大名にまでなっています。
『手水舎』
『拝殿』 拝殿扁額の写真は失念してしまいましたが【熊野大神】と揮毫されています
大棟の紋は【丸に五瓜に唐花】紋 秋元氏の家紋は丸のない【木瓜紋】
『拝殿』 斜めから
『透塀』と『本殿』
本殿正面
この写真ではよくわかりませんが、赤丸のところに秋元氏の家紋【木瓜紋】が彫刻されています。
偶々撮った写真に一部だけ写っていたもので、頭の中には家紋の彫刻のことは一切ありませんでし
たから。
『本殿』 側面から
『本殿』 斜め背後から
『神楽殿』
(境内社・以下同) 『猿田彦神社』
『八幡神社』 『鬼林稲荷神社』
『阿夫利神社』 『手長男神社』
『大杉神社』 『八坂神社』 『神明神社』 『雷電神社』
『伊奈利神社』 『大宰府神社』
『諏訪神社』 『八幡神社』 『浅間神社』
『八坂神社』 『八坂神社』
某史跡を訪ねた帰りに参詣とは別の目的で寄った関係で、社殿の写真は撮らなかった場所が
多く
あり、この記事を書きながら「あ、ここの写真がない」「ここもなかった」と。
参詣日:平成29年(2017)12月12日(火)
社 号:熊野大神社(くまの だいじんじゃ)
別 称:ー
御祭神:・伊邪那美命(いざなみのみこと)
・速玉男命(はやたまおのみこと)
・事解男命(ことさかのおのみこと)
創 建:延長5年(927年)この地に枇杷の木を棟木として小祠を建て創建したと社記では伝える
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧郷社
例 祭:10月15日 秋季例大祭
指 定:深谷市指定有形文化財〔名称:熊野大神社本殿 昭和34年(1959)11月3日指定〕
鎮座地:埼玉県深谷市東方1708
深谷市東方に鎮座する「熊野大神社」を訪ねてみました。
延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている武蔵国幡羅郡4座のひとつ「白髪神社」
の論社です。
社記によると『延長五年(1927年)に枇杷の木を棟木にして小祠を建て上野国碓氷郡熊野本宮より
奉遷し東方村と号す』とあるそうです。
本殿は深谷上杉氏の宿老であった秋元但馬守景朝・越中守長朝父子によって造営されたと言います。
文政2年(1819)と平成11年(1999)の大修理を経て今日にいたっているとのことです。
『秋元氏館』 ⇐ ブログ記事にリンク
『一の鳥居』 右側の社号標には『郷社 熊野大神社』と刻まれている
但し、旧社格である「郷社」は一応消した形にしてあります
「一の鳥居」をくぐって約300mの参道に入ると両側に奉納された三十九基の石灯籠が並ぶ
写真中央部あたりで道路が横切っています その先に「二の鳥居」
『二の鳥居』
「二の鳥居」扁額 下三文字〈大神社〉くらいしか読めません
更に進むと再び道路が横切っていますがその先に玉垣に囲まれた『熊野大神社』
「三の鳥居」右側に樹齢350年のご神木の大欅
『三の鳥居』
「三の鳥居」扁額 【熊野大神社】と揮毫
境内の玉垣際に設置されている「熊野大神社」説明板
熊 野 大 神 社 古くより小さな社があり、東方という地名もこの社から生まれました、天文(1532~55)の頃、深 谷上杉三宿老皿沼城主、岡谷加賀守清英がこの地方を領し、熊野大神社を深く崇敬し、社領を寄進 し今でも熊野免という年貢を免した土地があります、同じく三宿老の一人、上野台領主秋元但馬守 景朝その子越中守長朝は、当社が上野台の東北にあたっているので、館の守りとして崇敬し、天正 年間(1573~92)に当社の本殿を造り、現在本殿正面の桁に家紋が彫刻されてあります、天正18年 (1590)徳川家康、江戸入城後、松平丹波守康長が東方城主となりましたが、当社を信仰、社領を 免除しています 昭和58年1月 深谷上杉顕彰会 |
秋元長朝は、豊臣秀吉による小田原征伐によって深谷上杉氏の所領が奪われた後はしばらくは隠棲
していた。その後、徳川家康の家臣となり、上野国惣社に所領を与えられ1万石の大名にまで出世
しました。その子孫は更に累進し、喬知の代には老中・6万石の大名にまでなっています。
『手水舎』
『拝殿』 拝殿扁額の写真は失念してしまいましたが【熊野大神】と揮毫されています
大棟の紋は【丸に五瓜に唐花】紋 秋元氏の家紋は丸のない【木瓜紋】
『拝殿』 斜めから
『透塀』と『本殿』
本殿正面
この写真ではよくわかりませんが、赤丸のところに秋元氏の家紋【木瓜紋】が彫刻されています。
偶々撮った写真に一部だけ写っていたもので、頭の中には家紋の彫刻のことは一切ありませんでし
たから。
『本殿』 側面から
『本殿』 斜め背後から
『神楽殿』
(境内社・以下同) 『猿田彦神社』
『八幡神社』 『鬼林稲荷神社』
『阿夫利神社』 『手長男神社』
『大杉神社』 『八坂神社』 『神明神社』 『雷電神社』
『伊奈利神社』 『大宰府神社』
『諏訪神社』 『八幡神社』 『浅間神社』
『八坂神社』 『八坂神社』
某史跡を訪ねた帰りに参詣とは別の目的で寄った関係で、社殿の写真は撮らなかった場所が
多く
あり、この記事を書きながら「あ、ここの写真がない」「ここもなかった」と。
参詣日:平成29年(2017)12月12日(火)