◇延喜式内社〔論社〕◇
社 号:榆山神社(にれやまじんじゃ)
旧 称:熊野三社大権現
御祭神:伊邪那美命(いざなみのみこと)
創 建:(伝)孝昭天皇の御代(紀元前475〜393年)
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧県社
例 祭:10月20日 例祭
指 定:-
鎮座地:埼玉県深谷市原郷336
榆山神社は「延喜式神名帳」にある「武蔵国幡羅郡4座」のうちの一社「楡山神社」に比定
される式内社〔小社〕の古社です。
以下榆山神社公式HP『榆山神社由緒』から一部抜粋引用
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------
【御創立と沿革】
五代孝昭天皇の御代の御鎮座といふ言ひ伝へがあった。
大字原郷全域から東隣の大字東方の西部にかけて分布する木之本古墳群(木之本は小字名)は、奈良
時代ごろのものといはれ、古くからひらけた土地であることをうかがはせる。現在の末社の天満天神社
(富士浅間神社)や知知夫神社も、後世の創祀ではあるが、古墳の塚上に祀られてゐたものである。か
つては境内の森の奥にも塚があり、「里人不入の地」といはれた。
延喜年間(平安時代)、醍醐天皇の御代に朝廷の法規などをまとめた書「延喜式」の「神名帳」の巻
に、「武蔵国幡羅郡四座」のうちの一社「楡山神社」とある。すなはち朝廷より幣帛を賜った古社であ
り、「延喜式内社」といはれる。
旧原ノ郷村は、平安時代中期の北武蔵の武将・幡羅太郎道宗の再興になる地域である。神社の南西に
史跡「幡羅太郎館趾」がある。当時から幡羅郡の総鎮守、幡羅郡總社といはれ、御社名を幡羅大神とも
いった。
康平年間(1058~1065)、源義家の奥州征伐の時、幡羅太郎道宗の長男の成田助高は、当社に立ち寄
って戦勝を祈願したといふ。成田家は後に行田の忍城主となっていったが、当社は成田家代々の崇敬が
篤かったといふ。
徳川時代には、旧社家の没落と共に別当天台宗東学院の管理する所となり、「熊野三社大権現」ある
いは単に「熊野社」と呼ばれたこともあったが、「楡山熊野社」などとも言ひ、「楡山」の名も失はれ
てゐなかった。当時より節分の日の年越祭は盛大であり、「権現様の豆蒔」などともいはれた。
明治五年、旧入間県八大区の郷社に制定される。大正一二年県社に昇格。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------
『幡羅太郎館』 ⇐ ブログ記事にリンク
参道入口の右側の「楡山神社大ニレ」説明板と【武蔵國幡羅郡總社 榆山神社】とある『社号標』
枯れて切株だけが残る大ニレの御神木 若木でしょうか? それとも移植でしょうか?
参道入口の右側に設置されている「楡山神社大ニレ」説明板
埼玉県指定天然記念物一覧の中に、この「楡山神社大ニレ」は見当たりません。枯れてし
まったので指定を解除されているかもしれません。
『参道』
「一の鳥居」の手前右手にも社号標が建っています こちらは【縣社 楡山神社】とあります
一の鳥居の右方に設置されている「楡山神社」説明板
同じような内容の説明板が複数設置されていますが微妙に違いますので載せておきます
『一の鳥居』
屋根付きの『扁額』【延喜式内 八大区總社 榆山神社】と揮毫されています
『神楽殿』
参道左手に『手水舎』が見えます
『二の鳥居』
『拝殿』
『拝殿』と『本殿』を横から
境内北側の「楡山神社前交差点」の角にあるもう一つの参道(裏参道)
こちらにも『社号標』と『楡山神社『説明板』が建っています
ここの社号標には【縣社延喜式内榆山神社】とあります
埼玉県・深谷市設置の「楡山神社」説明板
こちらの説明文も載せておきます
境内末社『荒神社』
境内末社『天満天神社』
境内末社『大物主神社』
境内末社『大雷神社』(左) 『手長神社』(右)
『寒神社(道祖神)』 塞神社では?
このほかにも末社はありましたが・・・
社 号:榆山神社(にれやまじんじゃ)
旧 称:熊野三社大権現
御祭神:伊邪那美命(いざなみのみこと)
創 建:(伝)孝昭天皇の御代(紀元前475〜393年)
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧県社
例 祭:10月20日 例祭
指 定:-
鎮座地:埼玉県深谷市原郷336
榆山神社は「延喜式神名帳」にある「武蔵国幡羅郡4座」のうちの一社「楡山神社」に比定
される式内社〔小社〕の古社です。
以下榆山神社公式HP『榆山神社由緒』から一部抜粋引用
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------
【御創立と沿革】
五代孝昭天皇の御代の御鎮座といふ言ひ伝へがあった。
大字原郷全域から東隣の大字東方の西部にかけて分布する木之本古墳群(木之本は小字名)は、奈良
時代ごろのものといはれ、古くからひらけた土地であることをうかがはせる。現在の末社の天満天神社
(富士浅間神社)や知知夫神社も、後世の創祀ではあるが、古墳の塚上に祀られてゐたものである。か
つては境内の森の奥にも塚があり、「里人不入の地」といはれた。
延喜年間(平安時代)、醍醐天皇の御代に朝廷の法規などをまとめた書「延喜式」の「神名帳」の巻
に、「武蔵国幡羅郡四座」のうちの一社「楡山神社」とある。すなはち朝廷より幣帛を賜った古社であ
り、「延喜式内社」といはれる。
旧原ノ郷村は、平安時代中期の北武蔵の武将・幡羅太郎道宗の再興になる地域である。神社の南西に
史跡「幡羅太郎館趾」がある。当時から幡羅郡の総鎮守、幡羅郡總社といはれ、御社名を幡羅大神とも
いった。
康平年間(1058~1065)、源義家の奥州征伐の時、幡羅太郎道宗の長男の成田助高は、当社に立ち寄
って戦勝を祈願したといふ。成田家は後に行田の忍城主となっていったが、当社は成田家代々の崇敬が
篤かったといふ。
徳川時代には、旧社家の没落と共に別当天台宗東学院の管理する所となり、「熊野三社大権現」ある
いは単に「熊野社」と呼ばれたこともあったが、「楡山熊野社」などとも言ひ、「楡山」の名も失はれ
てゐなかった。当時より節分の日の年越祭は盛大であり、「権現様の豆蒔」などともいはれた。
明治五年、旧入間県八大区の郷社に制定される。大正一二年県社に昇格。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------
『幡羅太郎館』 ⇐ ブログ記事にリンク
参道入口の右側の「楡山神社大ニレ」説明板と【武蔵國幡羅郡總社 榆山神社】とある『社号標』
枯れて切株だけが残る大ニレの御神木 若木でしょうか? それとも移植でしょうか?
参道入口の右側に設置されている「楡山神社大ニレ」説明板
楡山神社大ニレ 埼玉県指定天然記念物 昭和二四年二月二二日指定 楡山神社の御神木となっている古木で、目通り約三・六メートル、樹高約一〇メートル、樹齢は約 六〇〇年と推定されています。 ニレは、山地性の落葉樹で、ハルニレとアキニレがありますが、この木はハルニレです。ハルニレ は、皮を剥ぐと脂状にぬるぬるするところから別名ヤニレともいいます。樹皮からは繊維が採れ、縄 などが作られました。北海道から本州の山地に自生していますが、この木は関東地方の平野部にある という点で貴重です。 楡山神社は、平安時代につくられた「延喜式神名帳」に記載される古社で、幡羅郡の総鎮守です。 「楡山」の由来は、昔からこの地方一帯に、ニレの木が繁っていたことによるといわれています。 平成六年三月 埼玉県教育委員会 深谷市教育委員会 |
埼玉県指定天然記念物一覧の中に、この「楡山神社大ニレ」は見当たりません。枯れてし
まったので指定を解除されているかもしれません。
『参道』
「一の鳥居」の手前右手にも社号標が建っています こちらは【縣社 楡山神社】とあります
一の鳥居の右方に設置されている「楡山神社」説明板
榆 山 神 社 榆山神社は、平安時代に編纂された「延喜式神名帳」に記されており、榆山の由来は往古この地方 一帯に楡樹が繁茂したことによる。正面に樹令六百年の楡の木があり、代々神木とされ、天然記念物 として県の指定を受けている。江戸期、熊野信仰に伴い「熊野三社権現」と号し、幡羅郡の総鎮守と して榆山熊野社と称したが、明治になって社号を榆山神社にもどした。祭神は伊邪奈美命である。本 社後方に塚があり、これを犯した者は災害があるといわれ里人はここを不入の地としたと伝えられる。 里人はこれを守り鳥を神の使いとしてと尊ぶ慣習があり、熊野崇敬の遺風といわれている。文化財は 和琴、磐笛、熊野三社大権現の扁額である。 昭和六十年三月 深谷上杉顕彰会 |
同じような内容の説明板が複数設置されていますが微妙に違いますので載せておきます
『一の鳥居』
屋根付きの『扁額』【延喜式内 八大区總社 榆山神社】と揮毫されています
『神楽殿』
参道左手に『手水舎』が見えます
『二の鳥居』
『拝殿』
『拝殿』と『本殿』を横から
境内北側の「楡山神社前交差点」の角にあるもう一つの参道(裏参道)
こちらにも『社号標』と『楡山神社『説明板』が建っています
ここの社号標には【縣社延喜式内榆山神社】とあります
埼玉県・深谷市設置の「楡山神社」説明板
楡 山 神 社 当神社は、平安時代に編さんされた「延喜式神名帳」に記載されている古い神社で、幡羅郡の総 鎮守であり、祭神は伊邪那美命である。 「楡山」の由来は、昔からこの地方一帯に楡の木が繁茂したことによる。境内の正面に神木とさ れる樹齢約六〇〇年の楡の木があり、樹高約九メートル、幹回り約三・六メートルで、天然記念物 として県の指定を受けている。 江戸時代は、「熊野三社大権現」と号したが、明治の神仏分離により社号を楡山神社にもどした。 二月の節分祭は近郊の人々でにぎわい、赤鬼・青鬼の人形を奪い合う珍しい風習がある。 また、深谷市指定文化財として、和琴・磐笛・佐文山筆熊野三社大権現扁額がある。 平成三年三月 埼玉県 深谷市 |
こちらの説明文も載せておきます
拝殿の鬼瓦の由来 此の鬼瓦は明治四十三年の拝殿再興以来、平成十一年五月までの八十九年の長い間酷寒酷暑風雪雨 に耐えておりました。然しながら屋根全体が歪みと破損等で止得ず平成十一年五月に屋根全体を新規 に葺替えし、一対の鬼瓦は後世に残すため氏子総代会で、ここに保存することといたしました。 平成十一年五月吉日 延喜式内 楡山神社 |
境内末社『荒神社』
境内末社『天満天神社』
境内末社『大物主神社』
境内末社『大雷神社』(左) 『手長神社』(右)
『寒神社(道祖神)』 塞神社では?
このほかにも末社はありましたが・・・