四季・めぐりめぐりて

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歴史講座2「上杉謙信の最終戦略 」

2024年10月04日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館 令和6年度 歴史講座2
 演 題:上杉謙信の最終戦略  
 講 師:乃至 政彦 氏(歴史家)
 日 時:令和6年10月4日(金)13:50~15:30
 会 場:国立女性教育会館 講堂(埼玉県比企郡嵐山町菅谷)
 内 容:

  ・謙信の最期
  ・謙信と信長の協力関係
  ・武田信玄逆転の秘策ならず
  ・謙信越山の決意
  ・幻に終わった天正二年の第一次武田包囲網作戦
  ・またも不発と化す天正三年の第二次武田包囲網作戦
  ・勝頼と謙信の和睦、そして氏政
  ・七尾落城からの手取川合戦
  ・謙信最後の遠征計画
  ・徳川家康と松平信康の確執
  ・徳川家康の危機管理意識


を聴講してきました。


上野五覧田城址(群馬県みどり市)
平成23年(2011)10月に攻城したものの行き止まり(?)の道に入ってしまい引き返してきましたので、
攻城は失敗に終わりました。
この案内板にあるよう五覧田城は天正2年(1574)3月に、上杉謙信により攻略されましたが、同年9月に
は由良成繁により奪い返されています。
講師の資料では、【勝頼と謙信の和睦、そして氏政】の項で、=天正三年(1575)一〇月一五日、関東に
入った謙信は、同月下旬には上野五覧田城を攻略すると、・・・=
とあります。天正2年(1574)3月に攻略したものの9月には奪いかえされたものを更に翌年も攻略したと
いうことでしょうか?謙信は何度も越山(厳冬の越後山脈を越えて毎年のように関東に侵攻していた。こ
の戦いを自ら「越山(えつざん)」と呼んでいた)をしていましたから、同じところを複数回攻めていた
としてもおかしくはありませんね。



今回の講座の主題である「上杉謙信の最終戦略」の年代よりも前に武田信玄と5度にわたって行われた川
中島の戦いがあります。この写真は第4次合戦である『八幡原の戦い』(永禄4年〔1561〕9月)を再現
した笛吹市の笛吹市役所前の笛吹川河川敷を使っての『川中島合戦戦国絵巻』で、信玄・謙信一騎打ちの
一場面です。
この写真は、平成24年(2012)4月15日の見学の際に撮ったものですが、笛吹川右岸の河川敷で行われて
いる合戦の模様は左岸の河川敷からの見学ですので思うような写真は撮れませんでした。


『八幡原の戦い』の舞台であった長野市『川中島古戦場史跡公園』(旧名称:八幡原史跡公園)に建立さ
れている信玄・謙信一騎打ちの像
上杉謙信に関係する写真はこの3点くらいでしょうか・・・


聴講日:令和6年(2024)10月4日(金)

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