四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

東堤古墳群の墳丘に鎮座する『堤熊野神社』(埼玉県上里町)

2021年01月24日 | 神社仏閣
◇延喜式内社〔論社〕◇


社 号:熊野神社(くまのじんじゃ)
旧 称:熊野皇太神社
御祭神:・奇御木野命(くしみけぬのみこと)
    ・奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)
    ・豊受媛神(とようけびめのかみ)
創 建:不詳
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧村社
例 祭:10月19日 秋祭り
指 定:-
鎮座地:埼玉県児玉郡上里町堤1204

上里町堤に鎮座する「熊野神社」は、延喜式』神名帳
に載る『賀美郡四座』のうちの「今木青坂稲実荒御魂神社」とされてきたようです。「延喜式内 今木
青坂稲実荒御魂神社」と刻まれた社号標も建立されています。
然し、御由緒に依れば《今木青坂稲実荒御魂神社なりといへど、証となすべきことなし》とあり、《今
木青坂稲実荒御魂神社であるとするのは付会と思われるが・・・》としています。
「付会」すなわち「こじつけ」と思われるということですが、完全に否定しきれず《当社が勧請される
以前にもこの地に何らかの神社があった可能性までは否定できない。》と結んでいます。
式内社ではないと思うものの式内社であってほしいという思いもあるのでしょう。
今城青八坂稲実池上神社の論社は5社もありますし、どの社が「延喜式」神名帳に載っている今木青坂
稲実荒御魂神社なのかは定かではありません。




金網フェンスを境にするだけで道路に沿うように参道と社殿があります
神社に駐車スペースはありませんし、路駐できるだけの道幅もありませんので、離れた場
所の農道際に駐めて歩いて神社まで・・・




『鳥居』


     

    『社号標』【延喜式内 今木青坂稲実荒御魂神社】と刻まれている




『熊野神社御由緒』

  熊 野 神 社 御 由 緒
                          上里町堤1204
御縁起(歴史)
 堤は、江戸時代の初期までに開発された村で、正保二年(1645)の「国絵図」(本庄市中原歌子
家蔵)によれば、当時の村髙は三七九石、家数は三六軒であった。
 当社の主祭神は『明細帳』には、竒御木野命(神祖熊野大神櫛御気野命)・竒稲田姫命・豊受姫命
の三柱が記されている。
 『風土記稿』堤村の項に「熊野社 鎮守とす、東昌院持、相伝て〔延喜式〕神名帳に載る所の今木
青坂稲実荒御魂神社なりといへど、証となすべきことなし」とあるように、当社は『延喜式』神名帳
に載る賀美郡四座のうちの今木青坂稲実荒御魂神社であるといわれてきた。『風土記稿』に記されて
いる通り、それを裏付ける資料はなく、町内にある他の熊野神社が中世の武士団の信仰とかかわりが
あることから推測すれば、当社が今木青坂稲実荒御魂神社であるとするのは付会かと思われるが、地
内には平安時代の住居跡があり、当社も東堤古墳群に属する墳丘上に鎮座していることから考えると、
当社が勧請される以前にもこの地に何らかの神社があった可能性までは否定できない。
 また、江戸時代に別当であった東昌院は、『児玉郡誌』によれば、本山派の修験で、幸手不動院の
配下として当地方の修験道宇の年中行事職を務めていたという。この東昌院は、神仏分離によって廃
寺となり、当社から東へ約二キロメートル離れた石蔵寺の脇に、その跡地がある。
御祭神 
 ・竒御木野命・竒稲田姫命・豊受姫命
御祭日   (省略)


     

     鳥居『扁額』 【熊野皇太神】と揮毫




『参道』
広い敷地の端にあります




『狛犬』




『拝殿』
拝殿前左側にある大きな石は何か意味を持ったものなのでしょうか




この写真ではよくわかりませんが向拝の蟇股の彫刻は見事です
拝殿の戸は格子の裏に板が貼ってありますので中の様子は確認できません




『拝殿』と『本殿覆殿』




社殿裏の古墳(東堤古墳群8号墳)の墳丘に鎮座する境内社




同上




離れたところから見ると墳丘がよくわかります
社殿も古墳の上に建つということですが見た限りでは平らな場所ですから削平したのでしょう




注連縄がありますので『御神木』でしょう
しかし、社殿の敷地の端にあるしどういうことでしょうか

参拝日:令和2年(2020)11月4日(水)

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