名 称:分倍河原古戦場
概 要:鎌倉時代末期、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で繰り広げられた合戦場跡
この戦は新田義貞が北条氏を破り鎌倉幕府滅亡のきっかけとなる
指 定:都指定旧跡(大正8年〔1919〕10月1日指定)
遺 構:―
所在地:東京都府中市分梅町2丁目59番地の4(分倍河原古戦場碑の所在地)
元弘3年(1333)5月8日、上野国新田荘(群馬県太田市)生品神社で挙兵した新田義貞は、鎌倉に向けて進軍。義貞の南下を
阻止しようと差し向けられた幕府側との小手指ヶ原の合戦(埼玉県所沢市)で、長崎高重・桜田貞国を打ち破りました。続く久
米川の合戦(東京都東村山市)でも勝ち、ついで分倍河原の合戦に移りました。
幕府側は北条泰家を大将として向かわせ、新田軍は一度は敗れ後退しますが、義貞勢は援軍を受けて反撃し、幕府軍を大破、そ
のまま鎌倉に攻め込み、22日鎌倉幕府は滅亡しました。
そんな鎌倉幕府滅亡のきっかけ分倍川河原古戦場跡を訪ねてみました。古戦場跡は、現在、新田川分倍公園となっており、歴史
的な合戦の舞台となったとは思えない静かで穏やかな場所です。
「分倍河原古戦場碑」の標識が見えました
分倍河原古戦場碑がある新田川分梅公園入口
北条氏と新田氏が戦った場所ですので、「にったがわ」とよみたいところですが「しんでんがわ」と読みます。
「緑道・遊歩道案内図」
府中市には沢山の緑道・遊歩道が整備されているようです
入口から少し行ったところに目的のものが見えてきました
分倍河原古戦場碑と説明板
「分倍河原古戦場碑」
昭和10年、新田氏の子孫で、元男爵の新田義美氏の筆によるもの
「分倍河原古戦場」説明板
「武蔵府中郷土かるためぐり」標柱
ほ 北条と新田の分倍古戦場
「新田川緑道」(しんでんがわりょくどう)
農業用の府中用水の流路である新田川にふたをして緑道して整備されたものだそうです
JR南武線・京王線の分倍河原駅の駅前ロータリーに、昭和63年(1988)、府中市によって建てられた「新田義貞公之像」
所在地:府中市片町3丁目29番地の2
題字は、当時の府中市長吉野和男氏、像の製作は文化勲章受章者の富永直樹氏によるものだそうです。
その顔は、鎌倉の方向を見つめています。
折角ですから後ろ姿も
台座裏側に嵌め揉まれている説明板
「新田義貞公之像」を裏側から
ここまで来たら次は鎌倉か? まあ、その途中に「関戸古戦場」(東京都多摩市)・「極楽寺切通し」(神奈川県鎌倉市)・
「須崎古戦場」(鎌倉市)・「稲村ケ崎}(鎌倉市)でも戦いがあったようですから、これらまで回るのは厳しいです。
いっそ遡って挙兵の場所・群馬県太田市の生品神社か? 暫くは無理でしょう
散策日:平成30年(2018)9月5日(水)