四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

江戸太郎の墓(埼玉県秩父市)

2019年04月12日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:江戸太郎の墓
指 定:―
所在地:埼玉県秩父市山田990 秩父聖地公園

江戸氏は、武蔵国を発祥とする武家。鎌倉幕府の御家人にして武蔵の国人領主。本姓は桓武平氏。家系は鎮守府
将軍・平良文の孫・将恒を祖とする秩父氏の庶流。
平武綱の子・秩父重綱の四男・江戸重継は平安時代の末に武蔵江戸郷を領して「江戸四郎」を称し、江戸氏を興
した。江戸氏は後の江戸城の本丸、二の丸周辺の台地上に居館を構えていたと推定されていますが正確な位置は
不明のようです。
その後、勢力の衰えた江戸氏は、太田道灌に江戸館(城)を奪われ、拠点を木田見(喜多見)に移した。のちに
姓も喜多見と改姓。

重継の長男・重長(通称太郎)の墓が埼玉県秩父市の市営秩父聖地公園にあるとのことから訪ねてみました。
看板に「江戸太郎の墓」とあるものの、江戸重長の墓ではなく、江戸氏累代の霊を分かつため近代に建立された
供養塔のようです。なお、この投稿では、看板のまま「江戸太郎の墓」としておきます。
江戸(喜多見)氏累代の墓所は、東京都世田谷区喜多見にある慶元寺にあり、重長の墓(五輪塔)や重長の銅像
もあるといいます。

源頼朝が大軍を引き連れて房総から鎌倉に向かう途中の治承4年(1180)10月4日、江戸重長は、畠山重忠、河
越重頼らと共に長井の渡し(現東京都荒川区)で頼朝に参会して帰順し、鎌倉幕府成立に貢献しました。
更に、畠山重忠が謀反の疑いをかけられ、二俣川で討ち死にした戦いで、江戸重長は重忠追討軍に加わっていま
した。何と皮肉なことでしょうか。




石碑 五輪塔 説明板 が並んでいます




説明板「秩父と江戸氏」
江戸重長(江戸太郎)についての記述はありますが、五輪塔が重長の墓とはどこにも書かれていません。




石碑と五輪塔
石碑には「墓誌」とあり、全部は読めませんでしたが、秩父氏一族、江戸氏について書かれ、末尾に「秩父氏と
江戸氏との血族的類縁は今尚絆をたもつと言うべし ここに江戸氏累代の霊を分ち墓碑を建立 永く後世に傳へ
んとす  昭和四十三年十一月吉日 秩父市長・・」とあります。また、五輪塔も近年の物のようです。
砕けた言い方をすれば、江戸氏を忘れないで下さい。江戸氏は秩父氏(且つ秩父市)から出たのです。と言うこ
とでしょうか。




参考までに秩父氏一族の系図を載せておきます。赤の矢印の所が江戸氏になります。

訪問日:平成31年(2019)3月24日(日)

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。