智観寺は、平安時代元慶年間(877~885)武蔵7党の一つ、丹治武信の創建である。丹治氏は、28代宣化天皇の曾孫、
多治比古王より出、武蔵国司として任ぜられ次第に土着豪族として勢力を拡大した。その後、中山に本拠を構え、加治氏として名
乗った末裔が、「中山氏」となったのである。
加治氏は鎌倉時代北条氏に仕え、その板碑塔婆は県指定文化財となり、その館跡は当時の面影を残す重要な資料として千葉県佐
倉市の国立民族博物館に模型として採用されている。ちなみに板碑とは、畠山重忠と戦った加治家季公を弔った碑である。
中山氏は、天正18年(1590年)八王子城を最後まで守った勇者中山勘解由家範の働きが豊臣秀吉、徳川家康に絶賛され、
その子照守は徳川家旗本に、弟、中山信吉は15歳で家康の小姓となった。さらに、信吉は水戸徳川家の付家老として幕府より派
遣され、黄門様として親しまれる2代光圀を世継ぎとして3代将軍家光に言上した功績で知られている。また、信吉は林羅山、伊
達政宗とも昵懇であった。寛永19年(1642)に卒し智観寺に葬られる。以後、13代までの墓がある。なお。日光輪王寺に
も碑がある。 (チラシ「真言宗豊山派 常寂山蓮華院智観寺」から転載)
飯能市民会館会議室での昼食・休憩を終えて「丹党加治氏の遺跡を巡る」午後の部に出発です
住宅街の道を歩いて中山氏のもう一つの菩提寺である智観寺へ向かいます
智観寺の参道前に着きました 文化財表示の標柱と寺号標の石柱
中々味のある手書きの案内板
参道
山門をくぐって境内へ
山号「常寂山」の扁額
山門を入ってすぐの左手にある鐘楼
智観寺 宝物殿
普段は公開されておりませんが、今回、特別に公開をしていただき住職さんからの説明もありました
宝物殿に収蔵されている飯能市指定有形文化財木造薬師如来坐像の説明板
宝物殿内は撮影禁止ですので残念ながら薬師如来坐像の写真はありません
これらは宝物殿に収蔵されているものですが、上述の通り撮影禁止のため写真は撮れませんでしたが、この写真は、頂いた「丹党
加治氏の遺跡を巡る」の資料の中に掲載の写真です。
(出典元として、資料には、飯能市郷土館特別展図録『中山氏と飯能・高萩』2003からの転載とあります)
丹党加治氏の板碑
この板碑の写真も上記同様ですが、ブログ用に説明文の位置だけを編集させていただきました。
この2基の板碑は智観寺墓所に建立されていたものですが、現在は宝物殿に収蔵されています。
右側の仁治二年銘の27は、亡母「名阿弥陀仏の五七日(三十五日)供養のため
左側の仁治三年銘の28は、元久2年(1205)6月の二俣川の合戦で畠山重忠に討たれた加治家季の三十八年忌にあたり建てたと
される。
いずれも阿弥陀如来を示す種子を本尊とし、形態や名分の書き様が共通していることから。家季の息子、助家が父母の供養のた
めに造立したと考えられる。(資料の説明文から抜粋)
宝物殿見学の跡は中山信吉公らの墓の見学のため本堂横にある墓所に向かいましたが、雨がポツリポツリと降り始めていました。
本堂
本堂に掲げられた山号「常寂山」の扁額
「中山信吉と智観寺」についての説明板
上記説明板の中から「中山氏墓所図面」部分を
住職さんの初代中山信吉公の墓についての説明を聞く参加者
信吉公の墓は大きな宝篋印塔です。下から見ただけでも大きいことがわかります。
角度を変えて
中山信義墓石碑
左:6代中山信敏夫人の墓 右:6代中山信敏の墓
左:9代中山政信夫人の墓 右:9代中山政信の墓
左:8代中山信昌夫人の墓 右:8代中山信昌の墓
左:? 中央:初代中山信吉夫人の墓 右:初代中山信吉息女の墓
7代中山信順の墓
13代中山信宝の墓
左:12代中山信守夫人の墓 右:12代中山信守の墓
左:10代中山信敬夫人の墓 右:10代中山信敬の墓
左:3代中山信治夫人の墓 右:5代中山信成の墓
3代中山信治の墓
他にも中山氏の墓がありましたが全部を撮ることはできませんでした。
風軒跡(中山信正霊屋跡)の説明板
石柱、石敷、石柵が遺る
智観寺に関する資料
散策日:平成30年(2018)3月16日(金)