社 号:大内神社(おおうちじんじゃ)
別 称:大内沢神社
御祭神:天明玉命(あめのあかるたまのみこと)他10柱
創 建:延暦年間(782~806年)?
社 格:旧村社
例 祭:10月15日 例大祭
指 定:村指定有形文化財(名称:大内神社本殿の彫刻 昭和59年〔1984〕2月23日指定)
鎮座地:埼玉県秩父郡東秩父村大内沢681
大内神社の由緒については境内に設置してある『大内神社 御由緒』を下記に載せておきますが、
その中に、
【「桓武天皇の曽孫、初めて平氏を賜った高望王(たかもちおう)の弟である恒望王(つねもち
おう)は、太宰権帥であったが讒言にあい、延暦年間(782~806)に、武蔵国に左遷された。当
時の武蔵国の大部分は広野であり、恒望王はなかなか居を定め得なかったが、やがて比企・秩父
の両郡に挟まれた山里に住し、その地を武蔵の大内と名付け、一祠を設けて厚く信仰する天明玉
命を祀った。これが当社の創建である。」となる。】とあります。
その後の恒望王についてですが、平城天皇の大同元年(806)に、恒望王の罪は讒言によるもの
であることがわかり、もとの官位にもどり、配所が武蔵野の一隅であったので武蔵権守となり、
大内沢より秩父山田へ移られたということである。その山田で官舎とした場所が、「恒持神社」
となっているとのことです。
創建者と伝わる高望王の弟恒望王については、いかなる歴史書にも系図にも恒望王の名は出てこ
ないということです。また、書かれている内容では、兄弟でありながら両者の活躍した時代が全
く違うということです。ということは、恒望王と言われる人物は別の人物ではなかったかと言う
話もでてきます。
そうした難しいことは私には分りませんが、伝承・伝説であったにせよ、そこに神社が鎮座して
いることは紛れもない事実であり、その神社を詣でてきたと言う事実にすぎません。
県道坂本寄居線(県道294号線)沿いに鎮座する『大内神社』 赤い橋が目印になります
大内沢川の対岸に鎮座します
『神橋』の正面に社殿が見えます
石段下右側に建つ『社号標』【村社 大内神社】
石段と鳥居
標柱「村指定有形文化財 彫刻 大内神社本殿の彫刻」
『手水舎』
『大内神社社殿』
拝殿前石段右横に察知されている「大内神 御由緒」
大内神社 御由緒 東秩父村大内沢六八一 ◇関東平氏の始祖 平恒望王が創建と伝える古社 鎮座地である大内沢は、村の北部に位置し登谷山をはじめとする外秩父山地の山々に囲まれた 閑静な山里である。当社の境内は地内に源を発する白石沢と大内沢川の合流点にあり、樹齢幾百 年と言われる神木をはじめとする数十本の老杉が創建の古さを感じさせる。 社蔵の古文書には、大内沢の地名及当社の由緒が記されている。これを要約すれば、「桓武天 皇の曽孫、初めて平氏を賜った高望王の弟である恒望王は、太宰権帥であったが讒言にあい、延 暦年間(782~806)に、武蔵国に左遷された。当時の武蔵国の大部分は広野であり、恒望王はな かなか居を定め得なかったが、やがて比企・秩父の両郡に挟まれた山里に住し、その地を武蔵の 大内と名付け、一祠を設けて厚く信仰する天明玉命を祀った。これが当社の創建である。」とな る。 以来、村の鎮守として祀られ、後には地内の正善寺にあった金剛童子社が境内に勧請されたが、 同社は神仏分離により、再び正善寺境内に戻された。しかし、現在でも同社を奥社と呼び、当社 の例大祭斎行前には、必ず出向して祭典を執り行うところに往時の名残を留めている。 一間者流造の本殿は、明治三十年(1897)に再建」されたもので、彫刻師の佐藤正貫が二年掛 かりで謹刻した見事な彫刻が施されており、昭和五十九年(1984)に村指定文化財となっている。 |
社殿を右斜めから 本殿はこの社殿「覆屋」の中です
棟鬼飾りには「左三つ巴紋」
上の写真では見えませんが棟の中央にも「左三つ巴紋」が入っています
拝殿正面の戸の格子から中を覗いてみましたが真っ暗状態
撮った写真を画像処理したら本殿前には格子戸があり本殿の姿は分りません
社殿の後部覆屋の格子の間から本殿を見ましたが、格子の内側は金網で上手く写真が撮れません
何枚か撮ったものの何とか見られるのはこの一枚
社殿の右側にある 『大黒天』 『琴平神社』
社殿手前左側にある『稲荷社』
鳥居の左側あるこの建物は神楽殿でしょうか?
道路を挟んで大内神社と反対側にある『大内神社社務所』
前が広いので参拝者はここに車を置けます
参詣・散策日:令和2年(2020)9月23日(水)