群馬県高崎市保渡田町・井出町(旧・群馬郡群馬町)に所在する国指定史跡保渡田古墳群を訪ねてきまし
た。
保渡田古墳群は、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の3基の古墳からなります。このうちの一つである
八幡塚古墳(別称:保渡田八幡塚古墳・上郊村2号古墳 所在地:保渡田町2000-1)
は、5世紀後半に築造された大きな前方後円墳で、これら3基の中では2番目に古いものです。
発掘調査の結果に基づいて、造営された当時の形に復元されたものですが、墳丘全体を覆う葺石と6000基
におよぶ埴輪の列は圧巻です。
詳細は下記の『史跡史跡保渡田古墳群 八幡塚古』説明版を参考にして下さい。
なお、この古墳群一帯は「上毛野はにわの里公園」となっており、園内には「かみつけの里博物館」があ
り、この日も一般客のほかにも小学生が観光バスで訪れていました。
南東から八幡塚古墳墳丘を
『史跡史跡保渡田古墳群 八幡塚古墳』説明板
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史跡保渡田古墳群 八幡塚古墳
八幡塚古墳は、国指定史跡保渡田古墳群(二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳)の一つで、1500年前
(5世紀後半)に築かれた前方後円墳である。墳丘は全長96mで、周囲には二重の堀(内掘・外堀)と墓
域の境を示す溝(外周溝)が巡り、墓域の長さは約190mに及ぶ。
内提の2ヶ所(A区・B区)からは、かつて、大量の人物・動物埴輪が発見され、埴輪研究史上よく知
られた古墳である。墳頂部には、豪族の遺体を収めた舟形石棺が存在する。
当時、群馬県地域(上野毛)は国内でも有力な地域であった。榛名山東南麓一帯を治めたこの古墳の被
葬者は、5世紀後半頃上毛野各地に勢力を持った豪族達の中でも、代表的な人物であったと考えられる。
本古墳は、史跡公園計画のもと5カ年にわたる発掘調査を行い、その成果を基に大きく破壊された古墳上
に保存用の土を厚く盛って、造られた時の姿に復元された。
なお、この古墳に関する情報・遺物は南側300mにある「かみつけの里博物館」に展示されている。
昭和60年9月3日指定 文部省
平成12年2月27日設置 群馬県教育委員会
群馬町教育委員会
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※図のように八幡塚古墳は後円部は北北西を向いていますが、便宜上、後円部を北側、前方部を南側とし
て説明させていただきます。
南東から墳丘全体を
外周溝(南側)
外周溝と外堤(東側)
外堤と盾持ち人埴輪
内堤の上の『人物・動物埴輪群像』
上掲『人物・動物埴輪群像』(A区形象埴輪配列区) 説明板
内堀(南側)
『墳丘と葺石』説明板
前方部(東側)
前方部三段築成(東側)2段目の埴輪列
内堀(東側)にある『中島』 後円部を囲むようにある4つの中島の内のひとつ
後円部
前方部から後円部
後円部から前方部
後円部墳頂
八幡塚古墳石棺展示室見学用の階段があります 左が入り口 右が出口
階段を下りて石棺展示室へ
舟形石棺
東側から後円部を
『中島』説明板
この古墳の内堀の中には4カ所の中島が造られた。内堀を掘った時に島の部分だけを残し、若干の盛土をして2段に整え
られた。回りには円筒埴輪が巡らされ、埦などの土器が多数出土した。
中島の性格は、①古墳における祭祀の場
②近親者や従者の埋葬施設(陪塚)
などが考えられるが、いまだ明らかになっていない。
後円部北側から
円筒埴輪列と中島
内堀西側の中島
北西から墳丘全体を 手前:後円部 奥:前方部
『人物・動物埴輪群像』(B区形象埴輪配列区) 墳丘の西側にあたります
南西から
南西から見た墳丘と南側内堤の円筒埴輪列
取りあえず猛暑のもとで八幡塚古墳を一周しましたが、まだ帰れません・・・
散策日:令和6年(2024)6月24日(月)