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高坂館跡 (所在地:埼玉県東松山市高坂)
高坂館跡は、北部と東部は都幾川の沖積低地に面し、水田面からの比高差は約10mの岸縁にあります。
高済寺境内の周辺、東西170m×南北230mの規模を有するものと思われます。土塁は、高済寺境内の西側に残り、
長さ約100m、高さ約2~6m、幅約4mを測ります。空堀は幅約8m、深さ約3mで巡り、館の西側及び南側にも
堀が連続しています。
応永23年(1416)上杉禅秀の乱で武州北一揆等高坂に陣との記録もありますが、永禄年間(1558~1570)
にあった後北条氏松山城攻のとき、北条氏康高坂に陣とある(正法寺文書)ので、このときの陣跡であったと考えられます。
その後、北条家臣高坂刑部がここに入り、現在の城郭規模に改修したと思われます。高済寺境内の西側土塁の北端上には、
当寺を菩提寺にしていた旗本加賀爪氏累代の墓が所在しています。
(埼玉県立嵐山史跡の博物館発行「改訂歩いて廻る『比企の中世・再発見』より引用)
更に他の文献によれば、後北条北条氏滅亡後、廃されたこの城館跡に徳川家康の家臣・加賀爪氏が陣屋を構え、
最終的には1万3000石の大名になったが、元和元年(1616)加賀爪直清のとき、旗本成瀬正章との領地境の
争いで不備があり、所領没収となって改易されたとある。
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右の高坂館跡略図のほぼ中央を横に走っている道路の下方(南側)は、住宅地・造成地となっています。
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高坂館跡=高済寺
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高済寺正門
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門前にある「県指定旧跡 加賀爪氏累代墓」の標柱 なお、高坂館跡としては「埼玉県選定重要遺跡」
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高済寺本堂と境内(一部)
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西側土塁のすぐ下にある「城山稲荷」 以前は土塁の上にあったようです。
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西側土塁の北隅にある加賀爪氏累代墓へ
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土塁上に設けられている加賀爪氏累代墓の石碑と説明版
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加賀爪氏累代墓の説明板
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加賀爪氏累代の墓石が並んでいます
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土塁上北側から南方を撮影
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土塁上から土塁西側の空堀を南方に撮影
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土塁下の状況
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土塁上南から北方に撮影
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西側土塁を南西方向から
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同じく南西方向から こんもりした所が墓所
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道路から土塁の南端を かつてはもっと続いていたのでしょうが、道路を通すために寸断されたのか?
ここにで言うところの高坂館はこの近くの別の場所にあったのではないかとか、後北条氏家臣に高坂という者は
いなかったので土豪の者であったのではないかなどと色々とはっきりしないことがあるようです。
攻城日: 2015年(平成27年)2月12日(水)