四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

成田氏館跡(埼玉県熊谷市)

2017年02月08日 | 100名城以外の城館跡


熊谷市上之533付近にある「成田氏館跡」を訪ねてきました。

天喜元年(1053)、藤原武蔵守忠基から五代目にあたる藤原助高(助隆)が、この地武蔵国成田郷(現・熊谷市上之)に居館を構えて成田氏を称しました(成田氏の祖)。
助高の子太郎助広は成田氏を継ぎ、次郎行隆は別府に居して別府次郎を名乗り、三郎高長は奈良に居して奈良三郎を名乗り、
四郎助実は玉井に居して玉井四郎を名乗り、本家と共に成田四家として県北の一大勢力となりました。

十五代親泰が、延徳元年(1489)に忍城の忍大丞を攻め滅ぼし、延徳3年(1491)忍城に移るまで400年余にわたり成田氏の居館があったとのことです。




場所については一応調べて行ったのですが、方向音痴を特技としているうえに、一方通行であったりと複雑な場所であったことから付近を(付近とは言い難い所も含め)
1時間近く徘徊した挙句、某郵便局に立ち寄り、親切な教えを乞いやっとその場所に。ここに行くについては、自身だけでなく色々な方も大変な思いをしているようです。
石碑ひとつにそこまで苦労して行く必要があるのか考えてしまいます。しかし、お城好きにとっては、「たかが石碑 されど石碑」のようでして。

一方通行の道を進行すると右手に有限会社吉鐡さんの看板が建っていますが、そこに標柱とフェンスで囲まれた石碑があります。




このように、かつてこの地が成田氏の居館があったということを示す石碑があるだけで、遺構は全くありません。
今は、居館であったこと偲ぶものは何もない場所。でも、かつては二重の堀を構える方形の居館があったというその場所に立つことに何かを見ているのでしょう。




標柱の側面にはこのように成田氏のことが簡単ながらも記されています




石碑の隣は牛舎です  いい臭い(?)が漂っています




若干角度を変えて   石碑と標柱の写真1枚で済むものを、それではあまりにも寂しい散策記になりますので




石碑の前は、成田山泰蔵院の広い駐車場。塀の向うに見えるのが泰蔵院の屋根。成田 泰蔵 が示すように成田氏と関係あるお寺です。

散策日:2017年(平成29年)1月26日(木)

中条氏館跡-常光院-(埼玉県熊谷市)

2017年02月07日 | 100名城以外の城館跡


熊谷市上中条1160に所在する「中条氏館跡」を訪ねてきました。

平安時代末期、藤原氏から出た常光が長承元年(1132)この地に居を構え中条氏を名乗りました。孫の家長は鎌倉幕府の評定衆として貞永式目の制定に関わったとされます。
館跡は、1万8千坪ほどの長方形で、現在は三分の一が常光院の境内となっているようです。常光院は、建久3年(1192) 家長が祖父常光らの菩提を弔うため、
館の一部を寺にしたものと云われ、土塁や堀の一部が残り鎌倉時代の居館の姿を見ることができます。昭和26年3月に埼玉県指定史跡となっています。
常光院の正式名称は、龍智山毘慮遮那寺常光院ですが、単に常光院で通っているようです。




常光院山門前の様子




山門前  右手にある寺号標の石柱には「県指定史跡 中條氏舘跡 常光院」とあり、館跡を強調しています
左手には 沿革碑 標柱 説明板 が建っています




熊谷厄除大師としても多くの参拝客を集めているようです




寺の表(南側)に水路があります  かつての水堀でしょうか




白壁の塀は土塁の上に建てられています




土塁を西方向から東方向に見てみました




標柱 表面と側面を並べてみました  記載事項は判読可能のようですのでここには転記しません




沿革碑  上部には常光院の古図が刻まれ 下部には常光院の沿革が刻まれています 内容は冒頭の説明とほぼ同じです




埼玉県指定文化財史跡 中条氏館跡  の説明板  苔で汚れたのでしょうか?どうにか 読むには読めますが




山門と山号の扁額 だいぶ文字を崩してありますが「龍智山」でしょうか




山門を入ってすぐ左手にある土塁様のものと空堀様のもの 場所的に考えて土塁・空堀跡ではなく排水用の溝かとも思えますが




土塁の左にある窪地 沿革碑の古図にある池の跡と思われます




土塁様のものと空堀様のものを反対向高から見てみました




本堂  萱葺きの屋根です




本堂正面




お札やおみくじ等を扱う建物でしょうか




本堂裏境内にはいくつかこうした土盛りがありましたが土塁とは違うような気がします




表の塀の境内内 これは土塁で間違いないようです




境内西側にある窪み  やはり排水溝かと勝手に理解しました




中条氏の墓

中条氏始祖 中条判官藤原常光公墓
藤原鎌足から16代目 長承元年武蔵國司として下向し統治法を治め 保延3年5月1日 没  とあり




天野氏三代の墓




境内西側の墓地との境にある空堀




同上




鐘楼  天和元年(1683)建立




山王社  関東では珍しいとされる朱塗りの山王鳥居




北方より常光寺の森の全景を

ここにも2度足を運びました。それでも満足な散策が出来たとは思いません。正直、土塁跡や空堀跡なのか迷う所が多々ありました。
長い歳月の間に、土塁は崩れて低くなり、空堀は埋まってしまい浅くなっていますから、後世の排水溝なのか土盛りの跡なのか判断が難しいです。
そんなことから根拠もないのに勝手に自分なりの判断をしてみました。

散策日:2017年(平成29年)1月25日(水)・31日(火)

成澤城跡-静簡院-(埼玉県熊谷市)

2017年02月06日 | 100名城以外の城館跡


熊谷市(旧江南町)成沢1125に所在する「成澤城跡」を訪ねてきました。
書物によっては、ここを館として捉え「成澤館」としているようです。現在は、跡地に曹洞宗の寺院「静簡院」が建立されています。
詳しいことは次の写真の案内板にあります。案内の中にもあるように土塁と石垣が遺るとういうことから興味を持って訪ねた次第ですが。
 



案内板  城について詳しく書かれています




お決まりとなった六地蔵尊  参道脇にあります




決して長い参道とは言えませんが 参道 です




本堂




本堂には院号でも寺号でもない「選仏場」と言う扁額が掲げられていますが、選仏場とは「禅堂」という座禅の修行堂の意味のようです




境内内の庭園




開基上杉三郎憲盛の墓




本堂裏手の土塁




土塁の内側に石組のようなものが見えます




浄閑寺跡の石垣とはこれのことでしょうか?




期待していた石垣とは違っていましたが、他の所には石垣らしきものは見当たりませんでしたし・・・




土塁  一番高いところでも1mくらいでしょうか




逆方向から
ここ以外の墓所や庭にも土を持ったような小さな痕跡がありましたが土塁とは言い難いと思います




全景とまではいきませんが土塁部分を・・・

散策日:2017年(平成29年)1月26日(木)・31日(火)

用土城跡(埼玉県寄居町)

2017年02月05日 | 100名城以外の城館跡


寄居町用土956寄居町農業ふれあいセンター付近にある「用土城跡」を訪ねてきました。
用土城は、北条氏邦の義父である藤田康邦(重利)が、従来からの持城である天神山城・花園城を氏邦に譲って
隠退し、用土新左衛門を名乗り用土に築いたいた城です。




豊臣秀吉による天正18年(1590)の小田原攻めで鉢形城などとともに用土城も落城したといいいます。
城跡は、開墾されてしまい遺構はなく、簡易な遊園地の一角に城址碑が建つのみです。




城址碑の裏面にその状況が書かれていますので転記しておきます。

本城は戦国の昔、北武蔵の豪族・藤田右衛門佐康邦が優勢なので、相模国小田原城主・北条氏康は関東制圧のた
め、その子・氏邦を養子として遣わした。康邦は天下の形勢を察知し、天文15年(1546)用土に築城し、
従来の居城花園城、天神山城を養子の氏邦に譲り用土新左衛門と称し用土城に隠退した。
その後天正18年(1590)鉢形城を攻略された時、陥落し以後廃城になった。 敷地四町二反歩、内堀、外
堀等存在し、老松鬱蒼としていたが、大正5年開墾され、今は昔の面影もないので後世のため馬場曲輪一同で本
碑を建立した。
昭和49年4月15日 元用土村長撰 諏訪神社宮司書
 
康邦の名は、北条氏康、氏邦父子から一字づつ貰い名乗ったということになっていますが、実際は北条氏に押し
付けられたというのが本当の所ではないでしょうか。




用土城懐古の碑




碑文の読み下し




ふれあいセンター  屋根の棟には用土城を意識してか小さな鯱が載っています。
右手の木立の所に城址碑が建っています。




用土新左衛門(藤田康邦)夫妻の墓は、寄居町末野にある藤田家の菩提寺正龍寺に北条氏邦夫妻の墓と並んであ
ります。




用土新左衛門(藤田康邦)夫妻の墓




北条氏邦夫妻の墓

散策日:2017年(平成29年)1月31日(火)

【追記】
この用土城跡の訪問の時までは、用土新左衛門は藤田康邦の隠居名との認識でしたし、城址碑の裏面にもそのよ
うに記されています。ところが、用土新左衛門は藤田氏の庶流であり、藤田康邦(泰邦)とは別人であるという
説に代わっていることが分りましたし、鉢形北条氏の研究家でもある某先生からも直接お聞きしました。
この投稿はこのまま残し、用土新左衛門と藤田康邦の関係についての説明は内容の整理ができたなら改めて投稿
したいと考えます。(平成30年7月14日)

鬼鎮神社節分祭

2017年02月04日 | まつり・イベント


節分の日である2月3日(金)、比企郡嵐山町川島1898に鎮座する鬼鎮神社の節分祭に行ってきました。
鬼を祀っている神社は全国に4つ、関東ではこの鬼鎮神社だけのようです。でも、鬼を祀るなら、普通「鬼神」であるべきなのに、「鬼鎮」では鬼を鎮めるわけ
ですからちょっと意味合いが違いますね。「鬼神」ではなく「鬼鎮」なのはそれなりの理由があるのかもしれませんし、かつては「鬼神社」、「鬼神明神社」の
社号であったようです。鬼を祀っていることから、節分の豆まきでは年男の中に赤鬼・青鬼も混じって一緒に、「福は内 鬼は内 悪魔外」と言って豆撒きをします。
そんな珍しい節分祭であることから、小さな神社ながらもメディアにもよく取り上げられているようです。




鬼鎮神社には、老若男女が次々と いや、老老男女かな(失礼)
 



祭礼(豆撒き)までにはまだ時間があります。 
それまでの時間を利用して、この2日前の2月1日(水)に、場所の確認と下見をしてきた時の写真で、少しばかし神社の紹介を・・・




参道




「鬼鎮神社」の社号標




手水舎




光沢のある説明板のため、風景人物が映ってしまい、内容を説明板で代用できませんので転記しておきます。

鬼鎮神社 御由緒
埼玉県比企郡嵐山町に、畠山重忠公が御造営された菅谷館(菅谷城)があった。 当神社は、その鬼門除けの守護神として、鎌倉街道に沿って建立され、
節分祭、勝負の神 として有名である。 約八百年前、安徳天皇の御代、寿永元年に創建され、御祭神は衝立船戸神、八衢比古命、 八衢比売命で、主神の、
衝立船戸神は、伊邪那岐命が黄泉の国を訪れた後、筑紫日向の橋 小門の阿波岐原で、禊祓いをして持っていた杖を投げ出した時、杖より生まれた神である。
それが幅広く解釈されて、悪魔払いの神、家内安全商売繁昌の神、受験の神と、人生の指 針を示し、強い力を授ける神として崇められている。
節分祭は、鬼鎮神社において一番大きな祭りで、この日は何千何万の人々が「福は内、鬼 は内、悪魔外」と連呼する、日本でここだけの鬼の祭りであり、
境内は大変な賑わいを見 せる。 遠く千年の昔から、勇名を馳せた坂東武者、明治以降の出征兵士の崇敬篤く、戦後は、受 験必勝の神様として参拝者は
後を絶たず、社頭を賑わしている。 このようなことから「鬼に金棒」と昔から云われている金棒のお守り、祈願成就赤鬼青鬼の 絵馬を授与される方が、非常に多い。
奉納者芳名 (省略)
平成26年2月3日


さらに地元では「鬼鎮様」と呼ばれる伝説も残されています
ある刀鍛冶の元に若者が弟子入りした。そして大いに働きだし、ある時、親方の娘を嫁に欲しいと言ってきた。鍛冶屋は「1日に刀を100本打てたら嫁に
やろう」と約束する。すると若者は一心不乱に刀を打ち始めた。その勢いは凄まじく、親方は気になって様子を覗いた。すると若者の姿はいつしか変じて
鬼となっていたのである。おののいた親方は、無理やり鶏を啼かして夜が明けたことにして、作業を中断させた。そして夜が本当に明けた頃に仕事場に行くと、
最後の1本を作るところで若者は槌を握ったまま死んでいた。哀れに思った親方は「鬼鎮様」として宮を建てて祀ったという。 




これは鏡面に赤鬼・青鬼が描かれいる  写真にするのは難しいです




社殿
唐破風の屋根の鬼瓦はまさに鬼瓦です




奉納額には、鬼鎮神社の社号の両脇に青鬼・赤鬼が描かれています
神紋は畠山氏の家紋と同じ「五三の桐紋」ですから、やはり菅谷館・畠山重忠とのつながりでしょう




鬼に金棒  沢山の金棒が奉納されています




豆撒き用の舞台(ステージ)が既に出来上がっていました




いよいよ豆撒きが始まります  赤鬼・青鬼もいます




強風のため紅白の幕が孕みぱなしです  境内は砂利ではなく土なので土埃が舞い、衣服やカメラが土埃まみれです




豆やミカンなどが撒かれますが、袋や帽子を広げて「福」をゲットしようと・・・




皆さん必死です  特に女性は・・・




「福」を頂きました。無論一人での収穫ではありませんが。

玉井陣屋跡-玉井寺・玉井神社-(埼玉県熊谷市)

2017年02月03日 | 100名城以外の城館跡


玉井陣屋跡と言われる玉井寺(熊谷市玉井1888)・玉井神社(同1911)を訪ねてきました。
玉井陣屋(玉井氏館)は、成田助高の四男助実が玉井に移り住み、玉井四郎と称し、玉井氏の祖となりましたが、その居館です。その場所は、現在、玉井寺・玉井神社のある
一帯と言われています。玉井氏は、12世紀中盤から12世紀末に活躍したようです。源頼朝の挙兵に馳せ参じて、一ノ谷合戦では平通盛を討ち取ったとされます。
玉井氏については、永久の乱までは名前が登場するそうですが、それ以降は不明であり。15世紀初めころには滅亡したしたようです。陣屋跡とされるところに遺構を認めることはでき
ませんが、玉井寺の境内には玉井四郎の墓と言われるものが遺っています。これは後世の人が供養のために建てたものと思われると、墓の前に立てられた説明板に書かれています。




玉井寺の寺号標石柱  後ろが当寺の駐車場です




寺号標の脇に建てられている標柱
以前は風雪に晒され文字も読めない状態のものがここより少し離れた場所に建っていたようです




山門




本堂




山号「井殿山」の扁額




鐘楼




玉井四郎の墓(供養塔)




何とか読めると思いますが




真ん中の石を重ねた五輪塔が玉井四郎の墓(供養塔)




玉井神社の始まりとなった井戸のようです




玉井大神社 玉井寺の裏側(北北東)にあります
鳥居の正面に神木が立っています




神社境内と玉井大神社




拝殿




扁額  




本殿は見事な彫刻が極彩色で施されています




本殿は覆屋で保護されていますが、彫刻は外から見えるようになっています。

成田助高の次男次郎行隆は別府に移り別府氏を名乗り(その後、東別府氏と西別府氏に分かれる)、三男三郎高長は奈良に居を構えて奈良三郎を名乗り、四男助実は玉井に居館を構え
玉井氏を名乗ったわけですが、何れも滅亡したようです。残るは本家の成田氏ですが、これは遥かのちに映画「のぼうの城」となるあの成田氏なのです。

昔、そこに館や城があったと言われても今はその痕跡さえない場所を訪ねてどうするの・・・と言われるかもしれませんが、行ってしまうのです


散策日;2017年1月28日(土)・31日(火)

奈良氏館跡-妙音寺-(埼玉県熊谷市)

2017年02月02日 | 100名城以外の城館跡


熊谷市上奈良702に所在する「奈良氏館跡」を訪ねてきました。現在、この跡地の一角には、真言宗智山派の寺院である「開敷山 観音院 妙心寺」が建立されています。
藤原氏の流れをくみ(武蔵七党のひとつ横山党との説もあり)、成田郷(現在の熊谷市上之)に居した成田助高の三男三郎高長は、奈良に居を構えて奈良三郎を名乗りました。



妙心寺の遠景  
舗装された参道も、数年前までは未舗装の車が1台やっと通れるような道だったようです(絵的には未舗装の細い道の方がよいかもしれませんが、不便では困りますし)
また、参道を入口右側に寺号標が建っていますが、参道を挟んで左側には標柱が建っていたようです。しかし、参道を整備したときに取り除かれたのか見当たりません。




山門前の道路ですが、鍵の手になっています。居館時代の名残り?




山門




お約束の六地蔵尊  中央に大きな地蔵があり七体ですが、これでも六地蔵と表現してよいのでしょうか?




境内に建てられている石碑   開山は頼尊(奈良三郎)とあります




本堂




寺号「妙音寺」の扁額
戸のガラスは本堂の中を覗けるように一部切り取られています




覗き穴?から本堂内に掲げられた院号「観音院」の扁額を




お堂  何というお堂かは失念しました




自然石を使った奈良三郎の墓
開山観音院  とまでは読めますが




奈良三郎藤原頼尊でよいかと




境内の一部です

この妙音寺一帯が奈良氏の館跡のようで、一応、周囲を歩いてみましたが遺構らしきものは見当たりませんでした。

散策日:2017年1月26日(木)・28日(土)他

安楽寺(埼玉県熊谷市)

2017年02月01日 | 神社仏閣


熊谷市西別府2044に所在する安楽寺を訪ねました。この寺に、別府氏の墓があります。山門前には、「埼玉縣指定 史蹟別府氏墓」の石標が建っています。

安楽寺は、臨済宗円覚寺派の寺院で、吉祥山丈六院と号します。安楽寺は、藤原不比等淡海が丈六の三尊を安置して養老年間(717~724)に草創、
当地に移り住んだ成田助隆の次男次郎行隆(別府次郎)が六阿弥陀を追加、九品仏堂としたと言います。
安楽寺は、その九品仏堂の別当として、繁室玄茂和尚(文和2年・1353寂)が開山となり創建したと言われます。




山門に掲げられた山号「吉祥山」の扁額




本堂   最近立て直しされたばかりのようです




寺号「安楽寺」の扁額




鐘楼




安楽寺九品仏(クホンブツ)堂   墓所を挟んで本堂の左手にあります

九品仏は、上品、中品、下品、さらに上生、中生、下生が組み合わさり、九種の違った印相(手や指の組み方)をしているとのことです。
但し、安楽寺の九品仏には、このうち中品上生、下品中生、中品下生、下品下生の4種はないとのこと。




九品仏堂の扁額  何と読むのでしょうか?




九品仏堂の前の方にも「史蹟 別府氏墓 埼玉縣」の石標があります
 



別府氏墓碑




史跡指定となっている 別府氏墓
後ろのお堂が九品仏堂




墓の説明と系図が書かれています




中央の板碑が西別府氏5代頼重の墓と称されている




甲斐守 藤原・・・と刻まれた銘文がどうにか読めます




別府氏墓所をうしろから

散策日:2017年’平成29年)1月25日(水)・26日(木)