四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

長楽用水路 ①(埼玉県川島町)

2020年08月08日 | まち歩き


長楽(ながらく)用水路は、比企郡川島町長楽の都幾川に設けられた長楽堰から取水し、途中でい
くつかに枝分かれし川島町北部を灌漑し、南部には安藤川に水を流し灌漑している。最終的には市
野川に排水される。流路延長は15.4 kmに及ぶ。これらすべてを散策して歩くことは大変なので、
取り敢えずは長楽堰から山王樋管のある日枝神社までを散策してみました。
今でこそ多少のごみが捨てられているものの綺麗な流れになっていますが、タナゴなどの魚が獲れ
ることから釣り人などが捨てたごみが酷く「ドブ川」と呼ばれた時期もあったようです。そんなこ
とからマナーを促す立看板が要所要所に立っています。




散策場所を地図に丸数字で入れてみました。便宜上、番号順に紹介していきますが、2日かけて
回りました。初めの日は何か所か回り損ねましたので、2日目は①から回り直したため大半の場
所は2回回ったことになります。
いつもこんな不経済なことをやっています(恥)
破線の上の部分は東松山市ですから、長楽用水路は東松山市との境付近を流れていることになり
ます。




長楽堰(ながらくせき)  左岸から                   (地図①)
長楽堰は長楽用水(農業用水路)の取水堰
写真の手前の所で都幾川から長楽用水に分水しています
 



長楽用水路の取水点 余分な水は都幾川に戻ります  写真の右手が上流(以下例外を除き同様)
取水堰のここは護岸工事がされていますが、あとは素掘りの水路です




長楽樋管   左岸の堤防上から                    (地図②)
都幾川の左岸堤防に設けられています 元圦(簡単に言うと用水の入り口です)
   



長楽樋管はこの堤防の中を通って堤外水路『長楽用水路』の吐口に(左端のフェンスに囲まれた
ところ)  なお、この写真においては右が下流




長楽樋管(用水の元圦)の吐口   ここが長楽用水路の始点となります

なお、長楽地区は長楽用水の堰元ですが、用水は矢来堰用水(東松山市の都幾川から送水)に依存
しているとのことです。

吐口の下流すぐの所の上で交差している掛樋(水路橋)は矢来用水




長楽樋管吐口のコンクリート壁に埋め込まれている銘板『長楽用水路樋管 昭和43年3月』とある
かつては煉瓦造(1899年竣工)であったものを何度か改修しているようですのでその際の年月か?
 



矢来用水の掛樋(水路橋)の上流側側面
左端の方に 『明治三十五年五月十日新築 比企郡中山村大字長楽』と縦2行に刻まれているとの
ことでズームで撮ったものの陰刻らしきものが写っていませんでした(残念)




矢来用水の掛樋(水路橋)の下流側側面
寄進者でしょうか 何名かの名が刻まれています 『宇津木・・』の名も




始点から見た長楽用水路




長楽用水路左岸の川畔の『地蔵尊』                   (地図③)




長楽用水路からいったん離れて『修堤記念碑』があるという長楽の氷川神社に向かうために地蔵
尊のすぐ下流に架かる橋を渡って




長楽『氷川神社』                           (地図④)
訪ねた日はたまたま氷川神社の祭礼の日でした




鳥居の脇(外側)にある石仏を納めた覆屋  雨風に晒されなくてよいですね




左:庚申塔(青面金剛)            右:三面馬頭観世音菩薩立像?




上述のとおり祭礼日であったことから境内には神輿が出ていましたし、拝殿には獅子頭が二面並べ
てありました。
さて、目的の『修堤記念碑』がどこに建立されているのか分りませんでしたので氏子さんのおひと
りにお聞きしました。
その方は以前は東京にお住まいでこちらに越してきたと言うことで、神社全体についてはまだ精通
してなかったようでわからないとのことでした。しかし、一緒に探してくれ、社殿の右側にある木
の後ろに隠れるように建っていた碑を見つけることが出来ました。




『修堤記念碑』の表側(左)と碑陰(右)
碑文は読める状態ではありませんが大正3年(1914)12月建立したもので、大正2年8月27日の洪水
で都幾川の左岸堤防は長楽地区で4箇所が決壊した。この碑はその修復工事の竣工を記念したもの
のようです。
碑陰には、埼玉県技手(名は省略)・土木技手(名は省略)・地元請負人宇津木松五郎、・工事委
員5名(名は省略)・長楽住民一同と記されてい
る。

 


更に、氏子さんから「神社の由来を書いたものがありますから見ていってください」と社殿に上げ
させていただきました。
これは幣殿入り口の上に架けてある『氷川神社由緒』




読めるように二分割にしてみました
【天文年中より天正にかけて宇津木兵庫之進北條氏政に仕え代官として此の地を支配す】
とあります。
宇津木氏はこのあたりの旧家名士のようです。宇津木・・・どこかで聞いた名だと思いませんか?
そうです。女子ソフトボール日本代表監督をしていた宇津木妙子氏はここの出身なのです。
宇津木兵庫之進の後裔かも知れませんし、そうでなくとも一族の方には間違いないようです。




本殿

更にさらに氏子さんから「堤防に九頭龍が二基あります」と行き方とおおよその位置を教えてくれ
ました。九頭龍大権現の石祠が左岸堤防の早俣橋付近にあるということは予備知識でありましたし、
条件次第で見てくる予定でしたが詳しい場所は分らずにいたものですからこれは大助かりとばかり
堤防に・・・




1基目の『九頭龍大権現』の石祠                 (地図⑤)のあたり
早俣橋の下流にあたります  写真上部に写っているのが早俣橋




表面がだいぶ剥離しています




2基目の『九頭龍大権現』の石祠                 (地図⑥)のあたり
早俣橋の上流にあたります   




こちらは大権現の文字もはっきりと




早俣橋の下あたりの堤防上から『長楽樋管』を

このあと来た道を地蔵尊のある所まで戻り再び長楽用水路の散策を
《長楽用水路 ②》へ続く

散策日:令和2年(2020)7月16日(木)・19日(日)

万葉歌碑「伊利麻治能 於保屋我波良能 ・・・」(埼玉県狭山市)

2020年08月05日 | 歌碑・句碑


万 葉 歌 :萬葉集 巻十四東歌三三七八 「伊利麻治能 於保屋我波良能 ・・・」
  撰   :大野信貞(歌人)
  書   :小川紫峰
建 立 日 :昭和61年(1986)4月10日
建 立 者 :狭山ロータリクラブ
所 在 地 :埼玉県狭山市入間川1丁目 狭山市役所の庭

萬葉集 巻十四東歌三三七八に歌われている「大家が原」がどこか不確かですが、入間地方のいく
つかの市町が、我が町が発祥の比定地としています。
狭山市もその一つで市役所の庭に「伊利麻治能・・・」の万葉歌碑が建立されていますので訪ねて
みました。




【碑文(歌)】

  伊利麻治能
  於保屋我波良能
  伊波為都良
  比可波奴流奴流
  和爾奈多要曾禰
   
    いりまじの
    おおやがはらの
    いわいづら
    ひかばぬるぬる
    わになたえそね
    
     巻拾四 武蔵の國歌の内


《大意》「入間道のおほやが原のいわゐ蔓を 引けばぬるぬるとよってくるように あなたと私の
    仲を絶やさないでください」




【碑陰】

  い り ま 道 の 碑

 いりま道とは、武蔵と上野のふたつの國府を結ぶ古道に沿うここ入間地方のことと考えられる。 
いりまの地名については、古くから日本書紀(720)の中に見え、和名類聚鈔(940)にも、伊利麻
と載っているように、入間川の集落の起こりはたいへん早く、古くは、いりま とよんでいたが、
後に川の字を加えたといわれる。なお、天暦の頃村諸考(950)にも「佐平次なる者入間川の南岸に
沿い、荒地を拓きて居を定む」の記録があり、入間郡名の出所も、この地よりと伝えられる。
 歌の意は「入間道のおおやが原に生えているいわいづらのように、私の恋しと思う娘よ、私が手を
引くままに切れることなく、どこまでも離れないでついて来て欲しい」と解される。
 昭和29年町村合併により狭山市となり、入間川のまちの名も次第に廃れてゆくこのゆかりの地に、
万葉人の優雅な詩心を讃えて、香り高い文化のふるさとづくりの径となるよう、新庁舎竣工を機に、
万葉の歌碑を建立し、いりまの名発祥のいわれを記す。
  昭和61年4月10日
 創立20周年記念  狭山ロータリークラブ
                        歌人大野信貞撰 
                          小川紫峰書

散策日:令和2年(2020)7月16日(木)

清水冠者義高の影隠地蔵(埼玉県狭山市)

2020年08月04日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:影隠地蔵(かげかくしじぞう)
形 態:石の地蔵尊
指 定:狭山市指定文化財〔記念物・史跡〕 昭和52年(1977)9月1日指定
所在地:埼玉県狭山市柏原204-1
 
源義仲の嫡男で頼朝の娘婿となった清水冠者義高は、実父の死をきっかけに自身に難が及ぶと察し
鎌倉から逃れてきましたが、頼朝の追手に入間川で討たれました。討たれる前に難を避ける目的で
一時的に地蔵の背後にその姿を隠したことから「影隠地蔵」と呼ばれますが、その影隠地蔵を訪ね
て来ました。
現在は石の地蔵で柏原よりに立っていますが、かつては木像でしかも広瀬側に地蔵堂があり、その
中に安置されていたとのことです。




『影隠地蔵』




『影隠地蔵』を横から




『影隠地蔵』説明板
 
    影 隠 地 蔵     市指定文化財 史跡      
                         所 在 地 狭山市柏原204-1 
                         指定年月日 昭和52年9月1日
 この地蔵尊が影隠地蔵と呼ばれるのは、清水冠者義高が追手に追われる身となったとき、難
を避ける目的で、一時的にその姿を隠したためといわれています。
 義高は源義仲(木曽義仲)の嫡男で、義仲が源頼朝と対立していた際、和睦のために人質と
して差し出され、頼朝の娘である大姫と結婚しました。政略結婚とはいえ二人は幼いながらも
大変仲がよかったと伝えられています。その後、義仲と頼朝は再び対立し、後白河法皇の命を
受けた頼朝は、弟範頼・義経の軍に義仲の討伐を命じ、義仲は敗れて討たれました。
 義高は我が身に難が及ぶのを避けるため、大姫のはからいで鎌倉から逃れ、父の出生地でも
あり関係の深かった畠山重能の住む現在の比企郡嵐山町か、生まれ故郷である信濃国(長野県)
へ向いました。しかし、頼朝は将来の禍根を恐れ、娘婿の義高に追手を放ちました。命を狙わ
れた義高は元暦元年(1184)4月、この入間川の地まできたときに、追手の堀藤次親家ら
に追いつかれ、一度はこの地蔵尊の陰で難を逃れたものの、ついには捕えられ、藤内光澄に斬
られたといわれています。
 地蔵尊はかつて木像で地蔵堂があり、その中に安置されていました。道路の拡張により現在
の場所へ移動していますが、過去にも入間川の氾濫で幾度か場所が移動していると思われます。
また、石の地蔵尊になったのは明治7年(1874)のことで、明治政府がとった廃仏毀釈に
より木像の地蔵が処分されたためと考えられています。不明な部分もありますが、義高の悲劇
をあわれんだ村人が建てたともいわれているなど、変わり行く時代の中でも影隠地蔵はその歴
史を後世に伝えています。
          =清和源氏略系図・桓武平氏略系図(省略)=
 平成24年3月 
                    狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会




『信濃坂 しなのざか』の標柱
左の道路は旧鎌倉街道で、写真には入っていませんが坂の下を左右に走っているのが旧奥州道




『歴史の道』説明板
 
   歴 史 の 道  鎌倉街道(かまくらかいどう)
 鎌倉幕府の成立とともに整備されたといわれる中世の道「鎌倉街道」は、武蔵武士を代表する畠山
重忠をはじめ新田義貞等多くの武将たちが、その栄枯盛衰の物語を刻みつけた道として、また、さ
まざまな文化の交流の場として利用され、狭山市の歴史の展開に大きな役割を果たした道です。
 狭山市内を通過する鎌倉街道の伝承路は、児玉方面(群馬県藤岡方面)に向かう通称「上道」があ
り、上道の本道(入間川道)と分かれた鎌倉街道には、堀兼神社前を通る道があります。このほか、
「秩父道」などと呼ばれる間道や脇道もあります。
 また、逆に「信濃街道」・「奥州道」といった鎌倉から他国への行き先を示した呼び方もあります。
                             狭 山 市



付近の街道図




右側の小さな繁みの中に影隠地蔵があります 赤い頭巾がほんのちょっとだけ見えます
電柱の少し先で旧奥州道と交差します 交差点名は「奥州道交差点」




影隠地蔵前に建つ石橋供養塔
この石橋供養塔は、安永三年(1774)二月 建立のもので、道標を兼ね
頂部に種子 願主 柏原村 十方助力
正面に「西 八わうじ道」、右面に「南 江戸道」、左面に「北 小川道」、裏面に「東 川こへみち」




影隠地蔵から南南東へ約1.2㎞行った国道16号線沿いに、入間川で頼朝の追手に討たれた源義賢を
祀った『清水八幡』(清水冠者源義賢終焉の地)が鎮座しています。2016.12.17撮影

『清水冠者源義賢終焉の地』⇐クリックでブログ記事に

散策日:令和2年(2020)7月16日(木)

源義賢・義仲を祀る浅間神社(埼玉県滑川町)

2020年08月03日 | 神社仏閣


社 号:浅間神社(せんげんじんじゃ)
別 称:-
祭 神:木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
    源 義賢公・源(木曽)義仲公
創 建:元久2年(1205)
社 格:-
指 定:-
鎮座地:埼玉県比企郡滑川町福田2945 浅間山

平安時代後期の武将である帯刀先生こと源義賢と、その子で朝日将軍と呼ばれた源義仲(木曽義仲)
の霊を祀った川島町福田地内の浅間神社を訪ねてみました。




説明板の右方にある 「あ 浅間山  滑川町郷土かるた散策路」 とある標柱
〈あ〉と頭にありますので、浅間山を〈あさまやま〉と呼び、その〈あ〉かと思いましたら、
  《 あ 雨乞いに 浅間山(せんげんやま)の池の水 》
で、雨乞いの〈あ〉だそうです。
何か騙されたような・・・




鳥居  社額「浅間神社」




『浅間神社』説明板
 
   浅 間 神 社
                                滑川町大字福田
  遠望する前方後円墳に思われる浅間山は参道入口から社殿まで、凝灰岩が露出して独特な
 雰囲気がある。
  伝えでは、久寿2(1155)年帯刀先生義賢が菅谷大蔵館で鎌倉悪源太義平に殺害され、
 その時義賢の家臣数人がこの辺りに落ちのびて土着、その子孫が天福年中に義賢の霊を祀っ
 た。天福の福、田圃の田で福田の地名になったというが、これについては定かではない。
  戦時中、山頂辺りから宝徳2(1450)年奉納の鰐口及び刀一振出土している。
  山頂の池は、どんな干ばつでもかれることのない水が貯えられ古くはこの水が御神体で信
 仰されていたことも考えられる。近年までこの水を飲めば安産であるといわれた。
                                平成31年3月 吉日
                                滑 川 町 観光協会
                                滑川町教育委員会

義賢の家臣数人がこの辺りに落ちのびて土着とありますが、この時落ち延びた家臣は7苗9人で、
この中には親子一組、兄弟一組がおります。
これら家臣は一旦は平郷(現在のときがわ町西平)に落ちのびましたが、一緒にいては危ないとい
うことから、明覚郷(現在のときがわ町明覚)に馬場・市川・荻窪氏の3苗が、大河郷(現在の小
川町腰越)に横川・小林・加藤・伊藤氏の4苗が移り土着しました。
兄弟一組というのは、馬場兵衛次郎と源次郎であり、弟の馬場源次郎の一名が福田の地に移り住み
ました。ですからこの辺りに数人というのはこれとは異なる話です。但し、明覚郷、大河郷も含め
ての「この辺り」ということなら数人というのも納得できます。
のちに、木曽義仲の側室の子・木曽義次郎が母方の姓をとり馬場義綱となり、祖父の旧臣である馬
場源次郎宅の近くに定住しました。
更に、説明板によればこれらの子孫が、天福年中(1233~1234)に義賢の霊を祀ったとあります。
奇しくも、この天福年中の天福元年(1233)に、明覚郷、大河郷の遺臣七苗(年代的に子孫と考え
られます)が、平郷の萩日吉神社に流鏑馬を奉納しております。
なお、この流鏑馬に関してパンフレット等では七苗を木曽義仲の遺臣としています。
また、別の所の記述では、元久2年(1205)に、二人の馬場家は、福田の浅間山に浅間神社を創祀
し、木花咲耶姫命と源義賢及び義仲の霊を合肥したと記録されているとあります。
上記の現地説明板では義仲も祀ったとは書かれてはいませんが、タイトルには敢えて「源義賢・義
仲を祀る」とさせていただきました。
説明板の記述を補充するという程のものでありませんが、これまでに知り得た僅かで浅い知識から、
その一部を簡単に書いてみました。これらに関する言い伝えは諸説あるようですから、ここに付け
足したことは間違っているかもしれませんし、省いたが個所がありますので正しく伝わらないかも
しれません。

それとこれは全くの素人の的外れな疑問かも知れませんが、八幡太郎義家の流れを汲む源義賢・義
仲を祀るのになぜ源氏の氏神である「八幡神社(八幡宮)」或いは「日吉山王神社(山王社)」を
勧請しなかったのかでしょうか? たまたま祀った山が浅間山であったから? 既にあった木花咲
耶姫命を御祭神とした浅間神社に合祀したから? 源義賢・義仲親子にとって源頼朝親子兄弟は敵
(かたき)ですから敢えて八幡を避けたのか?




参道 
普通ですと鳥居を潜った所に参道がありますが、この参道(石段)は、浅間山の南端部で説明板と
標柱の間位に上り口がありました。




凝灰岩が大きく露出しています  前方に見えるのは境内社




津島神社  左前方に雷電神社




雷電神社(火雷大神・大雷大神)




扁額がないので不確かですが 下浅間神社 かもしれません




拝殿




拝殿裏側  こちらから中に入れます




富士講(浅間講)の絵馬 〈明治13年(1080)〉




拝殿内から本殿を   拝殿と本殿の間には石橋が架かっています




扁額「浅間神社」
本殿と言ってもこの建物自体は覆屋ですので格子の隙間から覆屋内を




これがいわゆる本殿




水を湛えた本殿前の池




同上 左側から




浅間山の北端部にある登山道




登山道登り口  右端に小さく写っているのが鳥居
古くはこの平地で流鏑馬が行われたとの伝えもあります




浅間神社の鎮座する浅間山を南方から  




こちらは南方から望んだ浅間山

散策日:令和2年(2020)6月11日(木)

塩古墳群 ②(埼玉県熊谷市)

2020年08月02日 | 古墳


「塩古墳群 ①」に引き続き「塩古墳群 ②」では道路の西側に展開する古墳の紹介をしたいと思います。




黄色の線の枠で囲った古墳を番号順に




13号墳  測量図(配置図)がなければ見落とすような場所と規模です




14号墳




15号墳  やっと最後に見つけました




16号墳  右上にちょっと見えるのが17号墳




17号墳




18号墳  この右にある民家の庭の隅にちょこっとあったのがもしかしたら18号墳?




19号墳




21号墳

散策日:令和2年(2020)6月20日(土)

塩古墳群 ①(埼玉県熊谷市)

2020年08月01日 | 古墳


名 称:塩古墳群(しおこふんぐん)
別 名:-
墳 形:前方後方墳・方墳・円墳
規 模:全長:約35m・高:前方部1.7m 後方部5.9m(1号墳)
    全長:約30m・高:前方部2.2m 後方部5.5m(2号墳)
築 造:古墳時代前期(4世紀中葉~後半)
出土品:土器等
指 定:県指定史跡(名称:塩古墳群 昭和35年(1960)3月1日選定)
所在地:埼玉県熊谷市塩328ほか (旧大里郡江南町)

塩古墳群は7つの支群により構成され、第1支群に36基があり、うち21基が史跡指定の対象となって
います。
時期的には一番悪い時期に訪れたため、草が繁茂して墳形が隠れてしまっていたうえ歩くのも大変
ででした。
更に、古墳の数が多いことから、測量図(配置図)で1基ずつ位置を確認しながら、写真を撮りなが
らメモをして、後日、どの写真が何号基か分るようにしていたので時間もだいぶかかってしまいまし
た。1,2基ならこんな苦労もないのに。




県道11号(熊谷小川秩父線)を熊谷市街地方向から小川町方向に進行し、常安寺を過ぎて少しした
角に標柱が立っています。




標柱の建つ場所の県道に面した所に古い「塩古墳群」説明板 これでも十分に役に立ちます




標柱のある角を左折して道なりに進行すると杉林です この両側に古墳群が展開されています




史跡等に欠かせないのが石碑であったり石標であったりします これを見て史跡を実感します
逆光で文字が読まない真っ黒な状態でしたが画像処理をして何とか「塩古墳群」と読めるように




埼玉県指定史跡  塩 古 墳 群
                                  所在地 熊谷市塩
 塩古墳群は、滑川沖積地を望む比企丘陵北端の支丘上の山林内に分布しています。
 この古墳群は、前方後方墳2基のほか、方墳26基・円墳8基が残されており、古墳時代前期
(4世紀中葉~後半)の土器等の遺物が出土しています。
 主墳の2基はいずれも、前方後方墳で、北側の第1号墳は、全長約35m、高さは前方部で1.
7m後方部で5.9mを測り、長軸北20度西を示しています
 南側の第2号墳は、全長約30m高さは前方部で2.2m、後方部で5.5mを測ります。
 これらの古墳群は、極めて密集しており、保存状態も良好で、北武蔵地方の代表的な前期古墳
 群として貴重なものです。
 昭和35年3月1日埼玉県指定文化財となっています。
平成15年3月
                                 熊谷市教育委員会



案内板では、前方後方墳2基・方墳26基・円墳8基の計36基の古墳が残されているとありますが、こ
の測量図では20基の位置が示されています(不足分はどこに?)
このうち33号墳についてはあまりの藪で探すのを途中で断念しました。
この「塩古墳群 ①」では、緑の枠線で囲った道路の東側部分の古墳について紹介しておきます。

位置の順に紹介すればよいのでしょうが、番号順での紹介とします。




第1支群1号墳(狸塚1号墳)  説明板の背後にあります
支群中最大の前方後方墳で古墳群のほぼ中央に位置している




同じく1号墳




第1支群2号墳(狸塚2号墳)
①号墳のすぐ南西に位置する前方後方墳




同じく2号墳




3号墳




3号墳の北側に見つけた基準点石標 【塩古墳群 基準点 NO1 江南町】とあります
てっきり1号墳の墳頂にあるのかと思い伸びた草を掻き分け掻き分けて探してみましたが見つかり
ませんでしたが、まさかここにあったとは。




4号墳




5号墳




6号墳




7号墳




8号墳




8号墳(左)と7号墳(右)




10号墳




11号墳




12号墳




12号墳の南側に見つけた2つ目の基準点石標 【塩古墳群 基準点 NO2 江南町】とあります




道路から古墳群(東側)を

散策日:令和2年(2020)6月20日(土)