トドクロちゃんと山登り

自然が好きで日本アルプスと近郊の山登り。
高山植物や四季折々の花を愛で。
史跡・歴史・ドライブがすきな自由人です。

レンゲショウマと足助城

2019年09月06日 | データ
■2019.09.06 暑い時期に咲く可憐な花に出会えることを期待して足助町へ向かう。
盆前後から咲き始める花なのでまだ間に合うか?
 
個人のお宅の裏山にひっそりと咲いている。
お宅に声をかけ裏山へ向かう。
ホトトギス。
水引
編み物上手な蜘蛛。
人の手でもこんなに均等にできない。
まだ数株残っていた。
 
森の妖精:レンゲショウマ
 
終わっている花が多いなか蕾をまだある。
 
この花、何時か登山道で出会えたら最高ですね。
(聖沢の登山道にも咲いているらしい)
 
 
 
蜘蛛がレンゲショウマを守っているようだ。
 
 
少し移動して足助城
城跡公園足助城は、足助町制施行100周年を記念して、平成5年に開園しました。足助の古い町並みが一望できる標高301メートルの真弓山に、高櫓・長屋・物見矢倉・厨(くりや)などの建物が復元されています。発掘調査成果に基づく戦国時代の山城の復元は、全国で最も早い事例です。
 
発掘調査をして遺構跡からそうぞして建造された。
信州と三河の間にあるので山城が多い。
足助城の写真
直ぐ近くに紅葉で有名な香嵐渓がある。
 
足助氏(Wikipedia出典)

平安時代末期に浦野重遠の孫・重長が三河国足助の地に住んで足助氏を称したことに始まり、代々飯森城を本拠とした。また、同国の八条院領高橋荘とも関連があったとされる。鎌倉時代以降は御家人に列し、初代・重長の娘が鎌倉幕府2代将軍源頼家の室となり公暁を儲けるなど幕府との強固な繋がりを有した可能性が想定される。他方、鎌倉を結ぶ東海道および東山道の要地に勢力を持った清和源氏満政流は朝廷との繋がりも深く、後に源氏将軍家が断絶し承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げると一族の多くが京方として戦った(承久の乱)。承久の乱において、足助氏では、足助重秀の子重成が討死にしたが、その後も足助氏は存続しているので、重成以外は鎌倉方だった可能性がある[1]

足助氏はその後も御家人として存続したが、4代目惣領・重方とその子・親重官位を有し昇殿をも許されるなど朝廷との繋がりは依然として深く、加えて一族の中には有力御家人安達氏との縁戚がおり、弘安8年(1285年)の霜月騒動で一族の重房連座して滅ぼされたことなどから、次第に鎌倉幕府への不満を強めていくことになる。

元亨4年9月(1324年10月)に6代目惣領・貞親(重成)後醍醐天皇による討幕の計画で、日野資朝俊基の招きを応じて、同じ美濃源氏土岐頼貞頼兼父子、その一族の頼員(舟木頼春)多治見国長らとともに倒幕に加担したが、頼員の密告により六波羅探題に露見されて、貞親らは自刃して果てた(正中の変)。そして、元弘元年(1331年)に元弘の乱では幕府が事前に知るところとなり後醍醐天皇は笠置山に逃れるが、この時真先に馳せ参じて天皇に味方したのが貞親の子である7代目惣領・重範であった。重範は天皇の呼び掛けに応じて集まった約二千五百人の総大将をつとめた。

重範の死後、足助氏は南北朝時代には南朝宗良親王を支援していたが、後に足助を離れて全国に散り散りとなった。だが、一部は室町幕府に降り奉公衆に取り立てられて重んじられたという。



2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
レンゲショウマにカンパイ!! (nemobaba)
2019-09-06 20:55:53
森の妖精レンゲショウマが素敵に撮れてますね。
やはり蓮華升麻は緑の森の中で撮りたいですよね。
返信する
Re.レンゲショウマにカンパイ!! (nemobaba) (トドクロちゃんと山登り)
2019-09-08 22:08:27
nemobaba様
こんにちは!

ねもばーばー様のブログを見てレンゲショウマが見たくなり急遽出かけました。
8割方終わっていましたが、奥手の子がまだ頑張って咲いていてましたので愛でる事ができました。
何時か山で偶然出会いたい花ですね。
返信する

コメントを投稿