十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

己ならざるところなし

2009年02月03日 | 佛教

釈尊は自己探求の末、本来の自己を悟られその我を「無我」と言われたのであるが、「我が無い」とはどういうことか、なかなか解りにくいところである。


後秦(こうしん・384年~417年・五胡十六国の一)のころ、鳩摩羅什三蔵(くまらじゅう・さんぞう 法華経をはじめ多くの経論を翻訳、三論宗の開祖)を師とする肇(じょう)法師という優れた僧がいて、その肇法師の有名が言葉があるが、この言葉で無我の意味がよく分る。


   聖人に己なし、己ならざるところなし
      天地同根 万物一体


 己なしとは、己ならざるところなし ということなのである。何から何までぶっ続いていて自他の別がない。天と地も根源を同じくし万物は一体である。とすると己というものがなくなってしまうということである。


 肇法師は仏法ひとすじ優れた人であったが、王の怒りにふれ処刑されることになった。7日間の猶予を乞いその間に「宝蔵論」という論書を書き上げた。


こうして肇法師は斬刑に服したのであるが、次の遺偈(いげ)残している。


  四大元無主 五蘊本来空


  將頭臨白剣 猶似斬春風


 四大(地・水・火・風の元素で成り立つ人間の身体)に元より主無し。よって人間の五感も本来空である。まさに頭を差しのべて白刃に臨めば、さながら春風を斬るに似ている。


 日本でも切腹させられるような場合、この遺偈を思い浮かべて刑に臨んだ人も多かったのではないかと思う。 

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節分豆まきは”福は外”

2009年02月03日 | 世相

明日2月3日には節分、季節を分ける日とか、もうすぐ春です。節分行事「豆まき」について、10年前にニフティのフォーラムにアップした文章があります。「福は外」の提唱です。



  皆さんのお宅では節分行事をされますでしょうか。土地土地でいろんな習慣があるようですが、どこでもあるのが豆まきですね。豆まきの時はどんな掛け声をされるのでしょうか。一般的には「福は内、鬼は外」ですが、そう言わないところも結構あるようです。



東京雑司が谷の鬼子母神  「鬼は外」といえば祭神を追い出すことになるので「鬼は内、福は内」



奈良市中院町の元興寺  元興神(がごぜ)という鬼がいて悪者を退治する言い伝えがあることから「鬼は内」



奈良県吉野山の蔵王堂 「福は内、鬼も内」といい、鬼を集めて、お経の力で改心させるというもの。



愛知県の大須観音  「福は内」だけ。鬼の面が寺宝なので「鬼は外」は唱えない。群馬県鬼石町  昔、鬼が投げた石でできた町と言われており、鬼は町の守り神。近年では、全国から追い出された鬼の安住の地をうたっており、「福は内、鬼は内」という。  

(地域情報誌くりちゃん2月号から引用) といろいろあるようですね。

共通するところはどこも「福は内」は唱えるが「鬼は外」とは言わないところですね。  ところで私の家では「福は外」と唱えて豆まきを致します。何故、「福は外」なのか。ちょっと説明しますと、以前住んでいた近くに成田不動尊関西別院というのがあって毎年芸能人なんかを年男年女に招いて派手に豆まきを致します。そこの掛け声が「福は内」だけなんです。寺の境内に鬼なんぞおらないというのがその理由でございます。なるほどと思ったのですが、よく考えてみるとお寺さんが「福は内」というのも又おかしな話ではないか。福を授けるというなら「福は外」ではないのかと思いましてね。 



 そもそも「福は内」というのは内に福がないということで貧乏根性の表れでありましょう。幸い我が家はささやかではありますが恵まれてもいる。恵まれているならここは気持ちだけでも世間様に福をお分けするべきではないかということで「福は外」と掛け声することにしたのです。もう20年以上も前からそのやり方で豆まきをしております。   



   節分に  福を数えて  おすそ分け  福は外  福は外  



「福は内」とやるよりも「福は外」とやる方が気分が爽快になりますよ。で、今年の豆まきは寺も里も「福は外」で行きましょう。日本中が「福は外」とや>るようになればもっと住みいい社会になると思うのですが。  



     「福は外」!「福は外」!!^\(^o^)/~



 
 「ニフティでのレスへの回答」  
何故「福は内」なのでしょうか。これは「福がない」「福が足りない」ということが前提になっています。つまり、貧しいわけです。豊かでない。これは物心両面でいえるわけです。「福は内」と叫ぶことは、自分は貧乏です、心が貧しいですということを広言しているのです。



  そのようなところには貧乏神がやってきます。貧乏神にとりつかれますと、年がら年中「福は内」です。外の福を内に入れても皆貧乏神が持って行ってしまいます。  貧乏神とは心の貧しさのことです。足ることを知らないということです。足ることを知らないのですから貧乏神の蔵は底無しです。入れても入れても入ってしまう。どこまで行っても「福は内」、その度ごとに貧乏神はシメシメとほくそ笑んでいる。



  さて、「福は外」ですが、これは「福がある」のが前提になっています。ないものは出せませんから。福の神はちゃんと家の中にいるのです。福の神とは知足です。「福は外」と言って福が出ていってなくなってしまう、なんてことはありません。福の神の蔵もまた無尽蔵ですから。   生きるとは息をすることでもあるわけなんですが、呼吸で大事なことは呼気なんですね。吐く息で力が出てきます。吐ききれば自然に空気が入ってくる。呼だけに気をつけておればいいわけです。逆に吸気に集中すると肝腎の呼気がだめになってしまいます。力が出ません。まあ、似たような理屈はここにもあります。



      節分に  福を数えて  おすそ分け  福は外  福は外



  福豆を歳の数プラス1個食べますね。福豆の数だけ福の数を数えてください。どれだけ恵まれているか。その恵みを気持ちだけでもいいから外の人にもお分けする。   我ながらいいの作りましたね。笑点ならさしずめ座布団5枚。^_^;山田クーン。



  次は「鬼は外」ですが、これも鬼が内にいることが前提です。鬼というのは天の邪鬼というくらいですから、言ったことと反対のことを平気でやらかします。豆で追い出してもすぐ戻ってくる。また、鬼は外には住めないのです。心の内が棲家なのですから。鬼との戦いを止めて居住権を認めてあげることです。すると、鬼はおとなしくなります。   え、「鬼は内」ですか。鬼は外にはいない。呼び込んでも意味がないということでした。



 と、いうことで今年の節分は「福は外」で決り!



  「福は外」!「福は外」!  )^o^((^○^)(~o~)§^。^§

コメント (2)
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