「千の風になって」は2006年に秋川雅史の歌声でヒット、秋川はこの曲で紅白に3年連続で出場を果たした。
この歌は人が死んだらどうなるか。従来の宗教の説く死後の世界で個体として生きるという考え方、個体が別の個体として生まれかわるという考え方、また、死んだらお終いという考え方もあるが、それらとは別のあり方を示している。
多くの人に共感を呼んで、経済的事情もあって墓なんかいらないと人も増えているようである。かくいう私も墓無用論者である。「遺骨」なんて有難がっているが、要するにカスである。骨なんてものは生きている時は新陳代謝して老廃物して捨てられてしまうもの、10年も経てば全部入れ替わってしまうのである。
そんなものに手を合わせてみても仕方がないと思う。
そこで、歌詞を検討してみよう。
≪私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています≫
ここまではOKだが、次がおかしい。
≪秋には光になって 畑にふりそそぐ≫ ×
≪冬はダイヤのように きらめく雪になる≫ 〇
≪朝は鳥になって あなたを目覚めさせる≫ 〇
≪夜は星になって あなたを見守る≫ ×
星や畑にふりそそぐような光にはなれない。親に死なれた子供に「お星様になった」というようなメルヘンになってしまっている。
雪や鳥になるのはあり得る話であって、これは私の採るところで「そうだ、そうだ」と言いたい。
”一滴の水も大海に入れば大海となり、一塊の塵芥も大地に埋もれば大地となる”
我々はどこから生まれてきたのか、母なる大地、大海から生まれてきたのである。大地、大海は命の根源。死ぬとはその大地、大海に帰ること、つまり大地、大海になることである。その大地、大海から新しい命が生まれてくる。鳥も雪も風も生まれてくるのである。
星や畑にふりそそぐような光は地球の外からの話なのでそうはいかないから否定せざるを得ない。