個体的生命は死んだらお終い、死んで生き続けるということは絶対ない。以下見解を表明させてもらう。
しかし、何もかもなくなるということではない。生きた証は残ることは間違いない。
1.死後の世界を体験し蘇った者はどこにもいない。どこにも死後の世界の情報はない。
2.臨死体験は死んではいない。仮死状態で死んでいないから蘇生するので ある。
3.生命情報は複雑多岐にわたり、DNAなど一定の形状を有する物質的媒体に記録 されてこそ利用できる。幽霊に媒体となるべきものはない。記録されない情 報は電波の如く飛び去るしかない。
4.次の世の生はいつのものなのか。ボケ老人が死んだらどうなる。それが 行き着いた最終の精神なのだから 延長線上のボケた霊魂でいるしかない、理屈を考えればそうなる。
5.生前の記憶を有する者がいて、生まれ変わりの例として挙げられるが、 極々断片的な思い出話で決め付けはできない。 多重人格者は容易に別人格を演出することができるようである。
自分のことを胸に手を当てて考えてみるといい、一体どんな記憶の断片があり誰の生まれ変わりと特定できるのか。万人に一人もそんな人間はいない。
6.自分や自分の子がどこかの訳の分からない者の生まれ変わりとは信じたいのであろうか。断じてノーである。夫婦の愛情の中に第三者が入り込み、 それが自分の本体だとなればこれ程おぞましいことはない。
それでいつ死んだはず俺なるものが飛び込むのか、それは受胎の時だという。出歯亀やピーピング・トムが俺だということになってしまう。
まさに 親不孝の極みである。
7.不遇な人間を前世の悪行のせいにするのは、差別思想の最たるものであ る。
8.零歳児の死も百歳翁の死も死は死であり平等である。善人の死と悪人 の死とに差別はない。自殺も他殺も自然死もそこには差別はなく平等であ る。差別をつけるのは生きている人間である。
9.いろんな宗教が死後の世界のことを説いているが、その内容は皆違う。
しかし、死後の世界の話で金儲けしている、そこは共通している。