佛教は無霊魂論である
はっきり知っていただきたいことは、「佛法には無我にて候」(蓮如)である、ということである。インド語の「アートマン」というのは、〝自我″とも〝霊魂″とも訳される。これがインド思想のキー・ワードの】つである。そして、佛陀は「アン・アートマン」、「ニル・アートマン」(「アン」「ニル」は否定の辞)といって、1無我」説を主張されたのである。「自我」ないし1霊魂」の存在をはっきり否定されたのである。
だから、もともとない霊魂が崇るはずなどあり得ない。
肉体はなくなっても、霊魂は残る。だから先祖の霊魂を祭る。祭りを怠ると、その先祖の霊が崇る。ーーなどと、いうのは、まったく佛教とは何の関わりもない話である。事実、長いあいだインドの佛教では死者儀礼とは何の関わりももたなかった。思うてもみよ、親は子のために祖父母は孫のために、善かれ幸あれと願いこそすれ、子孫に崇るなどというのは、どこの極道者の考え出したことか。「子孫に崇るような先祖は、きょう限りこっちから線を切るがよい」と私は言う。
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道元禅師も佛教の無霊魂説なのに霊魂の存在を説くのには口を極めて非難しておられます。
以下は正法眼蔵弁道話の一節です。文語体なので読みにくいですが、それとなく意味は読み取れるのではないでしょうか。
『問うて曰く、ある人が曰く、生死を嘆くことなかれ、生死を出離するにいと速やかなる道あり。いはゆる心性の常住なる理を知るなり。その旨たらく、この身体は、すでに生あればかならず滅に移されることありとも、この心性はあえて滅する事なし。よく生滅に移されぬ心性わが身にあることを知りぬれば、これを本來の性とするがゆゑに、身はこれ仮の姿なり、死此生彼さだまりなし。心はこれ常住なり、去來現在変わるべからず。かくのごとく知るを、生死を離れたりとは言うなり。この旨を知る者は、從來の生死ながくたえて、この身をはるとき性海にいる。性海に朝宗するとき、諸佛如來のごとく妙徳まさに具わる。今はたとひ知るといへども、前世の妄業になされたる身体なるがゆゑに、諸聖と等しからず。いまだこの旨を知らざるものは、ひさしく生死に巡るべし。しかあればすなはち、ただ急ぎて心性の常住なるむねを了知すべし。いたづらに閑坐して一生をすぐさん、なにのまつところかあらむ。かくのごとく言う旨、これはまことに佛佛諸祖の道にかなへりや、如何む。
示して曰く、今言うところの見、またく佛法にあらず。先尼外道が見なり。
曰く、かの外道の見は、わが身、うちにひとつの靈知あり、かの知、すなはちに逢うところに、よく好惡をわきまへ、是非をわきまふ。痛痒をしり、苦樂をしる、身中の靈知の力なり。しかあるに、かの靈性は、この身の滅するとき、もぬけてかしこに生まれるゆゑに、ここに滅すと見ゆれども、かしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりと言うなり。かの外道が見、かくのごとし。
しかあるを、この見を倣うて佛法とせむ、瓦礫をにぎつて金宝と思わんよりもなほ愚かなり。癡迷の恥ずべき、例ふるにものなし。大唐國の慧忠國師、深く戒めたり。いま心常相滅の邪見を計して、諸佛の妙法に等しめ、生死の本因を起こして、生死を離れたと思はむ、愚かなるにあらずや。最も憐れむべし。ただこれ外道の邪見なりと知れ、耳に触るべからず。』
※文章の中に先尼外道という言葉が出てきて外道(佛教以外の諸説)のこととされているが、最近次のような文章を発見した。道元禅師もご存じなかったようである。
『先尼は外道(げどう)だとしている。しかし、雑阿含経「仙尼」では「仙尼」は「外学の出家」だとしている。「外学の出家」とは外道出身の出家者(佛教僧)を意味している。即ち、「仙尼」は外道出身の出家で今や佛教僧だとしているのである。この点は道元は誤解していたことが分かる。この誤解は訂正すべきであろう。』