真実と事実には、タイムラグがある。真実が先で、事実が後である。前回は太陽の例を挙げたが、もう一つ分かり易い例を挙げてみよう。
落雷があったとする。初めに光が走って次に音が聞こえる。光と音の伝わるスピード、つまり、情報の伝わり方が違うのである。それぞれが事実と受け止めることになる。真実は一つ、事実は2つあることになる。
つまり、事実は全て過去なのである。
確かに見たといっても、どうせ過去に自分の目で見たものに過ぎず、自分の視力でどんな光の下でどこから見るか、限定された認識にすぎない。
私の眼なんか、近眼、乱視、老眼、白内障、ドライアイ。錯誤、歪み等まともに見えていない。
全ては幻影。ところが皆、この幻影に結構自信を持っているのである。
自信があってこそそれを元に生きているのである。事実なくして生きられない。そこがやるせない。
これに関して内山老師の言葉を紹介しよう。
「思いは幻影、行為は現実、結果は化けて出る」
思いは幻影(事実)、行為は現実(真実)、結果(真実)は化けて出る(事実)
これを仏教用語では、惑業苦という。