華厳経に「諸行無常(しょぎょうむじょう)是生滅法(ぜしょうめっぽう) 生滅滅已(しょうめつめつい) 寂滅為楽(じゃくめついらく)」という言葉がある。
雪山偈といわれるもので、この言葉を元に「いろはうた」が作られたとされている。弘法大師の作というのは違うようである。
意味は「作られたものはすべて無常である。生じては滅していくことを本性とする。生滅するものがなくなり、静まっていることが安らぎである」
これは華厳経に書かれている、お釈迦様の前世である雪山童子が羅刹に変身した帝釈天から命を投げ出して教わったという物語である。
この話に纏わる面白い話を内山興正老師から聞いているのそれを紹介しつつ、私の見解を述べてみる。
話はちょっと古いが、ノストラダムスの大予言というやつで、世の終りが来るのではないかと本気で信じていた人が多くいた頃の話である。
老師は笑いながら、「生滅滅已つまり自分の死が世の終わりだよ」と言われていた。
諸行無常 是生滅法 これは当たり前の法則であるが、生滅滅已が問題のあることである。「生滅するものがなくなり」は岩波の仏教辞典から引いた訳だが、生滅するものがなくなりって、どういうことなのか。法、本性なるものがなくなるものなのか。真理と言われるものが消えてなくなる、そんなはずがない。
また、死と捉えるのも如何なものか。雪山童子は生滅滅已と聞いて命を投げ出している。命をなくしたところが寂滅で安楽、安楽も命あってのことでしょう。
生滅滅已できる諸行無常 是生滅法とは、真実ではなく事実なんだということ。
頭の中の出来事だということ。「祇園精舎の鐘の声」鐘の声で祇園精舎をイメージする、そのイメージのことなんだということである。
そんなイメージなら消そうと思えば消すことができる。
ある人は仏教は素朴実在論だといった、認識したものが実在だという考え方である。八正道にいう正見されたものは実在とする、つまり真実だとするのです。俺の目で見た真実、つまりは私のいう事実に過ぎないものを真実と思い込んでいるのである。
認識にかからない真実、認識された事実(頭の中のイメージ)このギャップが仏教の中ではきちんと説明されていないから皆、悩み苦労するのである。望遠鏡も顕微鏡もなかった時代に自分自身の五感に頼るしかなかった時代だから仕方がない。見えないものは見えない。
では、生滅滅已とは具体的どうすることなのか、坐禅して頭の中の生滅するごちゃごちゃをクリーンにすることなのである。
2,011年 時事通信社写真