ナミビア・ダマラランド
朝日新聞-2016年6月14日

幻想的なダマラランドの風景 (c)Wilderness Safaris
ナミビアという国名の由来でもあるナミブ砂漠は、国土を縦断するように広がる。南北1288kmというから、東京から帯広までの距離にほぼ匹敵する。その北部、やや内陸に入ったあたりにダマラランドはある。
ナミブ砂漠を網羅するナミブ・ナウクルフト国立公園からは外れているが、自然条件や風景は、ここもまた砂漠そのものである。
前回、紹介したソッサスフレイは2013年に世界遺産になったナミブ砂海(サンド・シー)の心臓部だが、ここはナミビアで2番目の世界遺産。では、最初の世界遺産はどこかと言えば、ダマラランドにあるトゥウェイフルフォンテーンである。ブッシュマンの俗称があるサン族という狩猟民が岩に描いた壁画(ロックアート)で知られる。舌をかみそうな名称はアフリカーンス語。後に住み着いたヨーロッパ人が命名したものだ。
ダマラランド・キャンプ Damaraland Campは、この世界遺産から車で約1時間半の距離にある。首都ウィントフックからはチャーター小型機で約1時間半。車での陸路なら丸1日はかかる。
小型機を降りると、砂漠をわたる熱い風がゴウゴウと吹いていた。ダマラランド・キャンプまでは、さらにオフロードを車で約30分走る。到着すると、迎えてくれたのは、底抜けに陽気でパワフルなアフリカンホスピタリティーだった。
スタッフ総出で声を限りに歌い、全身を激しく揺さぶって踊る。アフリカのウェルカムはどこもこんな感じだが、それにしてもの迫力に圧倒された。
マネジャーのマギーという女性を含め、キャンプを運営するほとんどが地元、トーラ保護区と呼ばれるエリアに住む、リンファスマカスという部族の人たち。自分たちの土地に来た遠来の客を歓迎してくれているのだ。
人種差別の苦難の歴史は南アフリカだけでなく、隣国のナミビアにもあった。その象徴が植民地支配していたドイツ軍により多くの先住民族が虐殺された1904年のへレロ戦争だ。この時、リンファスマカスの人たちは、虐殺を逃れて南アフリカに移り住んだ。その後、今度は南アフリカのアパルトヘイト政策により、1974年、ナミビアに強制送還された。地球でない惑星に降り立ったような独特の景観が広がるこの美しい土地は、また悲しみの歴史も秘めている。
ランチを食べて一息ついた後、近くの村に出かけた。ヤギ飼いを生業とする数十人ほどが暮らす。大人たちは放牧に、年長の子は遠くの学校に行っているそうで、村には私を案内してくれた青年と幼い子供たちだけがいた。こうした地元コミュニティーとの共生もキャンプのコンセプトである。
悲しみの歴史を教えてくれたのは、ひょろりと背の高いレンジャーのエマニュエルだった。荒涼とした大地に夕日が迫る。岩山の絶景を見ながら、サンダウナーと呼ぶ夕刻のカクテルタイムを楽しんだ。
空には雲がいくつか浮かんでいた。
「君も雨を待っているんだろう」
最初は聞き間違いかと思った。
旅人にとって、雨降りは望むところではない。でも次のせりふを聞いて、その問いかけを肯定せざるを得なかった。
「もう二年も雨が降っていないんだ」
キャンプのラウンジでたまたま同席した動物の生態を研究する学者に、二年も雨が降らないのは地球温暖化が原因なのか、聞いてみた。だが、彼はこともなげに言った。
「いつものことだよ」
それがこの土地の風土なのだった。
〈旅のデータ〉日本からのアクセス:成田からヨハネスブルクまで南アフリカ航空、キャセイパシフィック航空などで香港経由約18~19時間。ヨハネスブルクからウィントフックまで南アフリカ航空、ナミビア航空などで約2時間。「リトルクララ」の紹介はこちら。日本人スタッフのいる予約窓口はこちら
PROFILE
Yamaguchi Yumi 山口由美(やまぐち・ゆみ、Yamaguchi Yumi)
1962(昭和37)年、神奈川県箱根町生まれ。慶応大学法学部卒。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。旅を主なテーマにノンフィクション、紀行、エッセイなど幅広い分野で執筆。欧米、アジアのほか、南太平洋、アフリカなど、世界各地を取材旅行で訪れる。2012(平成24)年、『ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日』で第19回小学館ノンフィクション大賞を受賞。主な著作に『箱根富士屋ホテル物語』(小学館文庫)、『世界でいちばん石器時代に近い国 パプアニューギニア』(幻冬舎新書)、『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』(新潮社)など。
http://www.asahi.com/and_travel/articles/SDI2016061088531.html