先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

アイヌ協会、首相所信表明に好意的評価

2009-10-31 | 日記
(読売新聞2009年10月27日 )
 「鳩山首相の思いが伝わる演説だった」――。26日行われた鳩山首相の所信表明について、道内の民主党やアイヌ民族団体関係者は好意的に受け止めた。一方、野党となった自民党関係者からは「具体性が乏しい」との声も聞かれた。
 鳩山首相は所信表明で、「戦後行政の大掃除」として行政組織や事業のあり方、税金の使い道を見直すと改めて言明。それに続けて、「政治は弱者のためにある。弱い立場の人々の視点が尊重されなければならない」として、「友愛政治」への思いを強調した。
 その上で、「すべての人々が偏見から解放され、分け隔てなく参加できる社会」を掲げ、アイヌ民族を先住民族と位置づけて共生の重要さを強調した。首相が所信表明演説で先住民族の問題に言及するのは異例だ。
 北海道アイヌ協会の加藤忠理事長は「人権尊重と多文化共生に向けて、この国が新たな一歩を踏み出したという期待を持った。アイヌ民族に関する振興策をぜひ、推進してほしい」と歓迎した。
 民主党北海道の佐野法充幹事長も「友愛政治の実現という国づくりの方向性を分かりやすく説明し、国民の共感を得ることが出来たと思う。先住民族としてアイヌ民族の尊重も掲げ、随所に首相の思いが伝わった」と話した。
 ただ、自民党道連の伊東良孝会長はアイヌ民族への言及があったことは評価しつつも、「演説が長かった割に具体性に乏しかった」と指摘。雇用対策や北海道開発局の存廃問題などを、自民党から国会論戦で取り上げていく考えを強調した。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/news/20091027-OYT8T00033.htm

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弱い立場の人々尊重…所信表明演説全文2

2009-10-27 | 日記
(読売新聞2009年10月26日16時30分 )
 ◆いのちを守り、国民生活を第一とした政治◆
 ◆友愛政治の原点◆
 私もまた、この夏の選挙戦では、日本列島を北から南まで訪ね、多くの国民の皆さまの期待と悲痛な叫びを耳にしてきました。
 青森県に遊説に参った際、大勢の方々と握手させていただいた中で、私の手を離そうとしない、一人のおばあさんがいらっしゃいました。息子さんが職に就けず、自らのいのちを断つしか途がなかった、その哀しみを、そのおばあさんは私に対して切々と訴えられたのです。毎年3万人以上の方々のいのちが、絶望の中で断たれているのに、私も含め、政治にはその実感が乏しかったのではないか。おばあさんのその手の感触。その眼の中の悲しみ。私には忘れることができませんし、断じて忘れてはならない。社会の中に自らのささやかな「居場所」すら見つけることができず、いのちを断つ人が後を絶たない、しかも政治も行政もそのことに全く鈍感になっている、そのことの異常を正し、支え合いという日本の伝統を現代にふさわしいかたちで立て直すことが、私の第一の任務です。
 かつて、多くの政治家は、「政治は弱者のためにある」と断言してまいりました。大きな政府とか小さな政府とか申し上げるその前に、政治には弱い立場の人々、少数の人々の視点が尊重されなければならない。そのことだけは、私の友愛政治の原点として、ここに宣言させていただきます。
 今回の選挙の結果は、このような「もっとも大切なこと」をおろそかにし続けてきた政治と行政に対する痛烈な批判であり、私どもはその声に謙虚に耳を傾け、真摯に取り組まなければならないと、決意を新たにしております。
 ◆国民のいのちと生活を守る政治◆
 本当の意味での「国民主権」の国づくりをするために必要なのは、まず、何よりも、人のいのちを大切にし、国民の生活を守る政治です。
 かつて、高度経済成長の原動力となったのは、貧困から抜けだし、自らの生活や家族を守り、より安定した暮らしを実現したいという、国民の切実な思いでした。ところが、国民皆年金や国民皆保険の導入から約50年がたった今、生活の安心、そして将来への安心が再び大きく揺らいでいます。これを早急に正さなければなりません。
 年金については、今後2年間、「国家プロジェクト」として、年金記録問題について集中的な取り組みを行い、一日も早く国民の信頼を取り戻せるよう、最大限の努力を行ってまいります。そして、公平・透明で、かつ、将来にわたって安心できる新たな年金制度の創設に向けて、着実に取り組んでまいります。もとより、制度としての正確性を求めることは重要ですが、国民の生活様式の多様化に基づいた、柔軟性のある、ミスが起こってもそれを隠さずに改めていける、新しい時代の制度改革を目指します。
 医療、介護についても必死に取り組みます。新型インフルエンザ対策について万全の準備と対応を尽くすことはもちろん、財政のみの視点から医療費や介護費をひたすら抑制してきたこれまでの方針を転換し、質の高い医療・介護サービスを効率的かつ安定的に供給できる体制づくりに着手します。優れた人材を確保するとともに、地域医療や、救急、産科、小児科などの医療提供体制を再建していかなければなりません。高齢者の方々を年齢で差別する後期高齢者医療制度については、廃止に向けて新たな制度の検討を進めてまいります。
 子育てや教育は、もはや個人の問題ではなく、未来への投資として、社会全体が助け合い負担するという発想が必要です。人間らしい社会とは、本来、子どもやお年寄りなどの弱い立場の方々を社会全体で支え合うものであるはずです。子どもを産み育てることを経済的な理由であきらめることのない国、子育てや介護のために仕事をあきらめなくてもよい国、そして、すべての意志ある人が質の高い教育を受けられる国を目指していこうではありませんか。このために、財源をきちんと確保しながら、子ども手当の創設、高校の実質無償化、奨学金の大幅な拡充などを進めていきたいと思っております。
 さらに、生活保護の母子加算を年内に復活させるとともに、障害者自立支援法については早期の廃止に向け検討を進めます。また、職場や子育てなど、あらゆる面での男女共同参画を進め、すべての人々が偏見から解放され、分け隔てなく参加できる社会、先住民族であるアイヌの方々の歴史や文化を尊重するなど、多文化が共生し、誰もが尊厳をもって、生き生きと暮らせる社会を実現することが、私の進める友愛政治の目標となります。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091026-OYT1T00753.htm

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

訪ねたい:旅・まち・発見 北海道/下 阿寒湖アイヌコタン

2009-10-27 | 日記
(毎日新聞 2009年10月26日 大阪夕刊)
 ◇神の火に我が身を照らし赤面す
 北海道での最後の夜、ものがたり観光行動学会の李有師さん(54)と「阿寒湖アイヌコタン」(釧路市阿寒町)を訪れた。コタンとは村の意味。ここ阿寒湖では、36世帯約110人のアイヌが暮らす。木彫りなどの民芸品を売る店やアイヌ料理を出す飲食店が軒を連ね、年間約20万人が訪れる。
 聞けば、阿寒湖のコタンは、自然発生的にできたのではないという。戦後、一帯の地主で自然保護活動に尽力した故前田光子氏が、アイヌだけで自立して生活し、文化を継承、発展させるようにと、土地を無償貸与したのだ。「いわば、アイヌのニュータウンだね」と李さん。
 午後8時、「千本タイマツ」を見に温泉街へ向かった。近隣のホテルから観光客が続々と集まってくる。特設ステージに設けられたかがり火には、阿寒湖にすむ国の特別天然記念物、マリモの生育環境が守られるように、との願いが込められている。伝統衣装をまとった男性を先頭に、たいまつを掲げた観光客らの行列はコタンへ向かった。独特のメロディーに合わせ、商店街を練り歩く。
 コタンでは、「イオマンテの火まつり」を堪能した。98年、閑散期の集客イベントとして始めたという。「ウオーッホホホホー」。天に届かんばかりの雄たけびが闇を引き裂き、エカシと呼ばれるアイヌの長老が登場。火のついた矢を射ると、会場の真ん中に巨大な炎が現れた。燃えさかる炎にエカシがこん身の祈りをささげる。圧倒的な存在感に会場の空気は引き締まり、幻想的なアイヌの世界へといざなわれた。
 アイヌの古式舞踊には、自然をテーマにしたものが多い。男は狩りの様子を表し、女は優美な鶴になったかと思えば上下左右に激しく髪を振りかざす。その鋭いまなざしや切れのある身のこなしに、李さんは「自然に対する尊敬や恐れが痛いほど伝わる」とうなる。商業演劇ではない、暮らしに息づいた本物だからなのだろう。最後は、小さくなった炎を囲んでアイヌと観光客が輪になって踊る。客席と舞台、アイヌと「和人」の距離が一気に縮まった。
 火まつりの演出も手がける秋辺日出男・阿寒アイヌ工芸協同組合専務理事(49)は、温泉街の再生を担う一人。「本物志向のアイヌ城下町にするには、施設とソフトの磨き方がまだまだ足りない」と話す。いわれのない差別にアイヌから逃げようとしたこともあったが、その精神世界に引き寄せられた。仲間内では当初、観光で売ることに「さらし者になるだけ」と反対もあった。しかし、「時代の中で呼吸できない文化は死滅する」と信じる。
 都会とさほど変わらぬ現代的な生活を営みながら、アイヌがこんなにも真剣に自然や神を感じられるのはなぜだろう。「ジェット機に乗って、携帯電話も持ってるけど、正月には神社に行くでしょ。それと同じこと」と秋辺さんはこともなげに語る。木彫りの材料を探しに山に入る時は、必ず神に祈りをささげる。「アイヌが特別なんじゃない。ただ、忘れてる人もいるだけだよ」。秋辺さんの言葉に、ふと我が身を振り返った。<文と写真・林由紀子>
==============
 ◇旅の手帳
 阿寒湖アイヌコタンでは、木彫りや刺しゅうなどの体験メニュー(要予約)も。阿寒アイヌ工芸協同組合(0154・67・2727)。「千本タイマツ」(無料)と「イオマンテの火まつり」(大人1000円)は、11月30日まで。阿寒観光協会(0154・67・3200)。
http://mainichi.jp/life/travel/news/20091026ddf012100021000c.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

支局長からの手紙:ならまち大冒険 /奈良

2009-10-27 | 日記
(毎日新聞 2009年10月26日 地方版)
 毎日新聞BSラジオ面で掲載している「読んであげて」に、奈良町を舞台にした童話「ならまち大冒険」が登場します。スタートは11月1日で、1カ月間連日掲載します。作者は泉鏡花文学賞作家で多彩な才能を発揮されている寮美千子さん(53)です。寮さんは奈良の魅力にひかれて、3年前に首都圏から奈良町に引っ越してきました。お話を聞きながら、その言葉の端々からにじみ出る奈良への深い愛情が、奥の深い物語を生み出したことを実感しました。
 ほんの少しですが、物語のさわりを紹介します。
 関東地方に住む小学3年生の男の子の家に、大きな柏の葉っぱのはがきが届きます。そこには、奈良町に住むおじいさんの家が壊されそうになっていることが書かれていました。
 家は、築150年の町家ですが、雨漏りやすき間風のため、新しい家に建て替えようという話が進んでいたのです。しかし、その家が気に入っていた男の子は、冬休みを利用して一人で奈良町を訪ねます。そして、そこで起こる不思議な出来事を通じて、奈良町の地名の由来や奈良の歴史などにも触れられるものになっています。
 私がひざを打ったのは、物語に「不審ケ辻子(づし)」が登場したことです。私もこの春、東京から異動してきたのですが、奈良町を歩いていてこの地名を初めて見たときは、一種のカルチャーショックを受けました。
 住んでおられる方には、本当に申し訳ない思いで書くのですが、目にした瞬間は「よく、こんな物騒な地名の場所に住むな」ということでした。ところが、少し時間がたつと「この地名を、よくぞ現在まで残したものだ」という、奈良の奥深さに感心しました。
 さらに、歴史を感じさせる地名の由来を記載した看板も設置されているのには「参りました」という感じでした。いずれにしてもここは、物語の中でかなり重要な役割を果たします。事前に予想してみるのも、楽しい読み方かも知れません。
 寮さんの経歴を少し紹介します。東京生まれで、外務省職員、広告制作会社勤務などを経て、86年に「ねっけつビスケット チビスケくん」で毎日童話新人賞最優秀賞を受賞、05年には長編小説「楽園の鳥 カルカッタ幻想曲」で泉鏡花文学賞を受賞しました。
 他にも、アイヌやインディアンなど先住民族に関する絵本があると思えば、ジャズの坂田明さんらの演奏と一緒に、自作の詩などを朗読する「リーディング・ライブ」も。さらに、奈良少年刑務所社会性涵養(かんよう)プログラム講師として、童話や詩を通じて更正の手助けをしているのです。
 奈良に移られた経緯や、奈良町での生活のこともお聞きしましたが、面白すぎてとても書き切れませんので、機会があれば、改めて紹介したいと思います。
 寮さんは奈良町の魅力について、こんな話をしてくれました。
 「資本主義的な拝金主義ではなく、『足るを知る』という価値観があり、物質的なものではなく文化的なものに目が向いています。今生きている人たちが面白く、そのネットワークが張り巡らされている。これからあるべき世界があるという意味で、周回遅れのトップランナーと言えるのではないでしょうか」
 最後に「ならまち大冒険」に込めた思いを聞くと、「平城遷都1300年祭が単なるお祭りではなく、本当の意味で歴史を学ぶチャンスになったらいいと思って書きました」という答えでした。この考えには、私も大賛成です。
 イラストは、今は「せんとくん」と仲良くなった「まんとくん」のキャラクターの作者、クロガネジンザさんです。ご期待ください。【奈良支局長・山内雅史(yamauchi‐m@mainichi.co.jp)】
http://mainichi.jp/area/nara/news/20091026ddlk29070222000c.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ 36年間の感謝込め、白老のミンタラで閉館セール

2009-10-25 | 日記
【室蘭民報2009年10月25日(日)朝刊】
今月いっぱいで閉館する白老町若草町の名産品・土産品販売総合センター「民芸会館(ミンタラ)」で24日、感謝セールが始まった。「36年間の感謝を込めて」の張り紙が各店に掲示されている。
 白老観光商業協同組合(壬生龍之介理事長)が同会館と周辺で営業する店舗にセール実施を呼び掛けた。全商品20―50%引きの店もあり、アイヌの民芸品などが安価で売られている。
 この日、愛媛県から訪れた観光客は「なくなっちゃうの」と残念そうな様子だった。
 セールは31日まで。11月1日から5日までに商品を撤去する。鉄骨平屋約2900平方メートルの同会館は、無償譲渡を受けた町が本年度中に解体する方針だ。
(富士雄志)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2009/10/25/20091025m_08.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【白老】明治から続くポロト稲荷神社の歴史に幕

2009-10-25 | 日記
(苫小牧民報2009年 10/24)
 白老町若草町の民芸会館(通称ミンタラ)入り口脇のポロト稲荷神社が、10月限りで姿を消すことになった。民芸会館の閉館・解体に伴い、氏子たちでつくるポロト稲荷大明神奉賛会(壬生龍之介会長)が移転先を探していたが見つからなかった。壬生会長は「無くなるのは残念だが、長年ポロト地区を見守り続けてくれたことに感謝したい」と話している。
 町史や文芸誌によると、ポロト稲荷神社の歴史は明治末期に始まる。当時、前浜に祭られていた稲荷大明神を、地元の商工業者らが商売繁盛の神としてポロト湖畔の丘陵に建立した社殿に移した。戦中戦後の混乱期も、奉賛会を中心に地域の人々から大切に守られたという。町史には「この地が湖畔のアイヌ民族文化と歴史の遺産を持つ観光の拠点であることから、最近では観光地ポロトの繁栄に霊験あらたか、と人気が高まり、毎年六月一日盛大に例大祭が執行されている」とも記録されている。
 ポロト稲荷神社は1999年、社殿の場所が国有林に指定されて、現在の場所に引っ越した。奉賛会も毎月欠かさず、お参りを続けてきた。老朽化はみられるものの、鈴や標柱は昭和のころから長く使われている。
 ミンタラ解体後の跡地は国のイオル(アイヌの伝統的生活空間)再生地区となる可能性が高く、神社も再引っ越しを迫られていた。
 奉賛会も解散する。ご神体は今後、白老八幡神社(本町)に祭られる予定だ。27日午前10時30分からポロト稲荷神社前で解散の会と、ご神体の魂抜きの儀式が行われ。
http://www.tomamin.co.jp/2009s/s09102402.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ムラの宝物に、浜厚真海岸やアイヌ民族博物館

2009-10-25 | 日記
(苫小牧民報2009年 10/24)
 NPO法人北海道遺産協議会(辻井達一会長)は、ほっかいどうムラの宝さがしプロジェクトの第3次登録分を決定した。厚真町浜厚真海岸のサーフスポットのほか、白老町のアイヌ民族博物館などが登録された。
 北海道各地の宝物を掘り起こして発信し、活用することで地域やまちの魅力を創造することを目的としたプロジェクト。「ムラの宝物」「ムラの売りもの」「ムラのごはん」「ムラの宝物の発掘・活用の活動事例」の4種類がある。第3次登録は「ムラの宝物」など計26件。
 この中で、「ムラの宝物」に厚真町の「北海道ナンバーワンサーフスポット『浜厚真海岸(ビーチ)』」が自然ジャンルで登録され、「体験する」がキーワード。白老町からも3件。アイヌ民族博物館(文化)、アヨロ海岸(自然)、幕末の歴史を伝える史跡白老仙台藩元陣屋跡(歴史)。「ムラのごはん」で白老バーガー&ベーグルも登録された。
 協議会は「ムラの宝物」などを積極的に活用した観光振興を望む地域があれば、旅行代理店を含めた三者で商品化やPRなどを協議、展開していく。
http://www.tomamin.co.jp/2009s/s09102404.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【まちの足跡 未来へ】幕別町ふるさと館 開館30周年<5>

2009-10-25 | 日記
(十勝毎日新聞2009年10月24日 14時58分)

イクパスイ
神への畏敬の念伝わる
 「美しくまさに芸術品」と、事業委員の小助川勝義さんがうなる。長さ約30センチ、幅約2センチの木製。アイヌの神に祈りをささげる儀式「カムイノミ」などで、神聖な酒を、すくうようにして神にささげるときに使う。
 同館で展示しているイクパスイの多くは、模様などが彫られている。その一つに、クマが両足を広げたような形で立体的に彫られたものがあり、ひときわ目を引く。「アイヌはマキリ(小刀)一つですべて彫る。素晴らしい技術」と、小助川さんは目を輝かせる。
 展示されているアイヌの道具や生活用品は、ウポポ(歌)、ムックリ(口琴)、リムセ(踊り)の伝承者だった故安東ウメ子さん(享年72)が贈ったものだ。イクパスイのほか、儀式の際に頭にかぶる冠「イナウル」、酒を作るための入れ物「シントコ」(行器)などが並んでいる。
 イクパスイは、親から子へ代々引き継がれていく。小助川さんは「アイヌにとってクマは、山の神として重要な存在。このイクパスイは見た人に作者の思いが伝わり、カムイ(神)に対する畏敬(いけい)の念を感じさせる」と話す。(平田幸嗣)
 (おわり)
http://www.tokachi.co.jp/feature/200910/20091024-0003117.php

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

訃報:松本成美さん 82歳=釧路アイヌ文化懇話会長 /北海道

2009-10-25 | 日記
(毎日新聞 2009年10月24日 地方版)
 松本成美さん 82歳(まつもと・しげよし=釧路アイヌ文化懇話会長)22日、播種(はしゅ)性血管内凝固症候群のため死去。通夜は24日午後6時、告別式は25日午前9時、釧路市星が浦南1の博善市民斎場。自宅は同市大楽毛南5の2の13。喪主は妻花衛(はなえ)さん。
 アイヌ文化の発掘・再評価に尽力。近年は大正時代に殉職したアイヌ逓送人・吉良平治郎氏の生涯に光を当て、06年には舞台化を実現。最近は吉良氏の伝記を執筆中だった。
http://mainichi.jp/hokkaido/shakai/news/20091024ddlk01060278000c.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釧路アイヌ文化懇会長の松本成美さん死去

2009-10-25 | 日記
(釧路新聞2009年10月24日)
釧路アイヌ文化懇話会会長の松本成美(まつもと・しげよし)さんが22日死去した。82歳。自宅は釧路市大楽毛南5の2の13。通夜は24日午後6時、葬儀は25日午前9時から星が浦南1の博善市民斎場。喪主は妻花衛さん。1927年高知県生まれ。旧制高知高校(現高知大学)卒業後、標茶町に移住。中学校教諭として白糠町などで勤務。退職後は、道教大非常勤講師などを務める傍ら、同懇話会では96年から会長を務め、97年には釧路アイヌ語の会を設立。アイヌ語の文献・資料の研究や文化の継承活動に力を注いだ。日韓・日朝の明日を考える「釧路かささぎの会」副会長も務めた。
http://www.news-kushiro.jp/news/20091024/200910247.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【白老】食の総合サイト開設

2009-10-25 | 日記
(苫小牧民報 2009年 10/23)
 白老町の食材王国しらおい地産地消推進協議会(会長・飴谷長蔵町長)が、白老産の食材に関する情報をデータベース化した「食材王国しらおい・総合サイト」を、インターネットに開設した。食材の季節、町内の生産(加工)者、レシピなどあらゆるデータがそろっており、グルメにおいしい情報がいっぱいだ。
 道のチャレンジ再生交付金を受けて開設した。2008~10年度の3カ年計画で、08年度は食の情報収集を中心に取り組んだ。
 データベースに収集された食材は生鮮品、加工品、アイヌの伝承有用食材、アイヌの伝承食材加工品の4つに分類。品目、食材名、生産者、流通時期など6つのテーマで検索し、行き着いた各食材のページで情報を得ることができる。さらに生産者のホームページや白老観光協会が10月に開設した通信販売サイト「北海道・白老ねっと商店」にもリンクし、気に入った食材があれば注文もOK。ほかに、白老バーガー&ベーグルの開発や食のイベント情報など町内の食に関する取り組みも掲載している。
 同協議会では今後、データベースを流通業者への支援や商品開発、一般消費者への情報発信手段として幅広く活用したい考えだ。
 食材王国しらおい・総合サイトは、http://www.shiraoi-foodsmap.jp/
http://www.tomamin.co.jp/2009s/s09102301.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先島住民 遺伝的に本島と近く 琉大と東大大学院研究

2009-10-25 | 日記
(沖縄タイムス2009年10月23日 社会 )
台湾先住民と近縁性なし
 先島諸島(宮古島、石垣島)の住民は沖縄本島住民と遺伝的に近く、いわゆる「琉球クラスター(集団)」の一つであることが22日までに、琉球大学医学部と東京大学大学院の共同研究で分かった。考古学的には沖縄本島と先島諸島は約1000年前まで文化的交流は少なく、先島諸島は台湾先住民を含む東南アジアの海洋民との共通点が多いとされてきた。しかし、今回の研究で現在の先島住民は遺伝的には沖縄本島に最も近く、台湾先住民との近縁性はないことが明らかになった。(黒島美奈子)

 研究は琉大医学部形態機能医科学講座解剖学第一分野研究室と、東大大学院新領域創成科学研究科が共同で実施。2007年に3代続けて住む石垣島の高校生63人、宮古島の高校生66人、沖縄本島の専門学校生95人の歯形、血液、唾液(だえき)を採取し分析した。
 結果、母方の遺伝を示すミトコンドリアDNA配列は沖縄本島、宮古島、石垣島が琉球クラスターに属し、台湾先住民とは離れた系統に位置した。同じく父方の遺伝を示すY染色体データに基づく系統樹でも3島の集団は、台湾先住民とは離れた。
 歯形の分布では沖縄本島の今帰仁、嘉手納の住民と、宮古島、石垣島の住民は、歯の幅が狭い上に唇と舌の間の歯ぐきが太く、日本や東アジアなど、ほかのどの地域とも異なる位置に存在することも分かった。
 琉球大学医学部の石田肇教授は「活発な文化的・遺伝的交流があったとされる琉球王朝時代に、琉球クラスターができあがったのではないか」と推測する。
 日本人の起源に関する研究でアイヌ民族と琉球人はともに東南アジア起源の縄文時代人の直接の子孫であるとされてきたが、石田教授は「琉球クラスターは昔からある縄文集団に、ある時点でほかからの移入があり、個性的な要素を持った可能性がある」と分析した。
http://www.okinawatimes.co.jp/news/2009-10-23-M_1-001-1_003.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「脱ダム」田中氏ら視察 平取 地元住民と意見交換

2009-10-24 | 日記
(北海道新聞10/23 15:57)
 【平取】長野県知事時代に「脱ダム宣言」した新党日本の田中康夫代表らが23日、事業が一時凍結された平取ダム(日高管内平取町)の建設予定地などを視察するため平取町を訪れ、川上満町長や地元住民らと意見交換した。
 田中代表のほか、今本博健京大名誉教授も同行、23日午前は2003年8月の台風10号で床上浸水などの被害が出た同管内日高町の沙流川下流域を視察した。平取ダムの建設に反対している地元住民から話を聞き、午後に平取ダム予定地を訪問する。
 一方、ダム建設を推進する川上町長は町役場で田中代表に対して「町民の生命や財産を守るためにも地域の声を受け止めてほしい」とダムの必要性を訴えた。
 田中代表は「ダムは事業費の大半を大手ゼネコンに持って行かれる。地域の公共事業につながる治水のあり方を探る必要がある」と語った。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/195987.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『シャクシャイン戦記』の感想 斉喜広一

2009-10-24 | 日記
(janjan 2009/10/22)

著者:大森光章 出版社:新人物往来社
定価:1900円+税 発行日:2002年4月30日
【シャクシャインという人物】
 本書は、寛文9年(1669年)に起きたアイヌの雄・シャクシャインによる、対松前藩との戦いを、主としてアイヌの側から、しかしほとんど感情を入れ込まず、写実的に淡々と書き上げた著である。
 アイヌについては、筆者はほとんど先入的な知識は持ち合わせていない。ただ、将来小説家にという淡い希望を抱いていた若いころ、何かの資料にでもなればと、古本屋で買った『アイヌの民俗』という本を読んで、何となく好感を抱いていたのは事実である。
 その好感の中には、温和で、従順で、強欲とは無縁で、自然と一体化して日々生活している、そうした思い込みが含まれていた。
 シャクシャインは、十勝のポンベツ(本別町)の首長の息子で、体格もよく、気性も荒く、乱暴者だった。そして20歳のとき、幼友達だった人妻と密通し、厳しい制裁(棒による殴打)を受けた後、女とともに村を追われた。
 追われた2人は、山中で孤立した生活を送り、やがて子もなすが、シャクシャインが猟に出ている間に妻子ともに餓死させてしまった。それ以後彼は放浪の旅に出る。このときの経験が、彼の後の人生に何らかの原風景として投影しただろうことは、想像できる。
 放浪の後、やがてその実力が認められたシャクシャインは、日高地方のアイヌの首長に祭り上げられる。
 筆者が最初に衝撃を受けたのは、シャクシャインが酒の上のささいな喧嘩から相手を殴り殺してしまい、それを謝罪するどころか、「相手が弱かったから死んだのだ」と言い放ったことである。
 シャクシャインはまた、単なる乱暴なだけではなく、頭脳の方も明晰であった。和人による砂金掘りで川が汚され、鮭が獲れなくなっているのを見かねて、知行主と交渉した。鮭はアイヌと知行主との交易の大事な産物である。鮭が獲れなくなることは知行主にとっても都合の悪いことであるので、シャクシャインの要望を聞き入れて、砂金採取を夏場だけに限定させた。砂金の運上金は、藩に直接入るが、交易の収益は知行主に入ることを見越した上での頭脳的な交渉であった。
 その実績も認められて、彼は首長に祭り上げられたのである。
 シャクシャイン率いる一統と、オニビシ率いる別の一統がシベチャリ(静内)川を挟んで、漁猟場をめぐり、度々抗争を繰返していた。その凄まじさは、お互い殺すまでやる、まさに死闘である。ここでも、アイヌに対する筆者のイメージはくずれた。
 松前藩としては、オニビシの方に味方していたが、それでも抗争は困る(収益源であるアイヌの産物が減る)ので、度々和解の調停に乗り出した。
 ここで印象的なのは、あれだけ戦闘的なシャクシャインも、松前藩の実力、権力、武力に対しては、これは初手からかなわぬものとして、極めて従順な姿勢を見せていたことである。
【松前藩への反抗】
 その松前藩への反抗の直接の原因となったのは、交易のレートを一挙に松前側が、1/2に落としてしまったことによる。これには、松前側に、困窮する藩財政という事情もあったろうが、アイヌ側にしてみれば極めて理不尽な要求であった。しかも、これを訴えると、松前側は暴言や暴力ではねつけた。
 このときの暴言の中に「言うことをきかぬ年寄りアイヌは皆殺しにして、若者アイヌだけにしてしまうぞ」という脅し文句があった。やがてこれが、シャモ(和人)は、交易品の酒の中に毒を入れて、アイヌを皆殺しにしてまうつもりだ、という噂になって拡がった。
 さらに、松前から訴えに行ったアイヌの長老が、病死してしまった。実際は天然痘にかかってしまったようだが、これは毒殺である、との噂が拡がった。
 ここでアイヌの側に激しい反松前感情が起き、ついにシャクシャインが松前攻撃に立ち上がった。シャクシャイン自身は、先の一件は毒殺ではないだろうとわかってはいたようだが、あえて、士気を鼓舞するためにも、毒殺説を流布した。バラバラであった各地方のアイヌを、何とか1つにまとめようとしたのだ。
 いよいよ反松前戦争が起きるが、ここで改めて筆者が衝撃を受けたのは、アイヌの戦いが、徹底した殺戮を目的にしている、ということである。緒戦で、知らずにやってきた交易船を襲い、水夫もろとも皆殺しにする。海に飛び込んで逃げようとする者をも討ち取ってしまう。そこには、生け捕り(捕虜)にするという発想が見られない。少なくとも、本書の記述からは覗えない。
 さらに、シャクシャイン自身の命で、金掘り小屋に間者を放ち、賄い夫を抱き込み、食事に毒を盛って、金掘り和人を皆殺しにし、埋めてしまう、という残酷なこともやっている。
 結局、松前藩の(和睦を装った)狡猾な謀略によってシャクシャインは殺され、アイヌの対松前戦争は終結する。
 北海道でのアイヌと松前藩の戦いは、アメリカ大陸での先住民と白人の戦い、あるいは中国大陸での中国人と日本人の戦いにも何か通ずるものを感じたのは事実だ。
 なお、松前側からいえば「乱」もしくは、「反乱」ということになるのだろうけれど、ここでは本書の表記に従って「戦争」とした。
http://www.book.janjan.jp/0910/0910201912/1.php

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日韓国際環境賞:しらいみちよさん、「虹別コロカムイの会」を支援 /北海道

2009-10-24 | 日記
(毎日新聞 2009年10月22日 地方版)
 ◇「シマフクロウの森づくり」で受賞 シンガー・ソングライターのしらいみちよさん、歌で流域の心つなげ
 「シマフクロウの森づくり」を進め、第15回日韓国際環境賞に選ばれた「虹別コロカムイの会」(舘定宣会長、73人)。活動のメーンは100年先を見据えた植樹だが、流域の人々の心をつなげる役割を果たしたのは歌だった。10年間続いた「西別川流域コンサート」に携わった山梨県都留市のシンガー・ソングライター、しらいみちよさん(49)に、森づくりへの思いを聞いた。【本間浩昭】
 シマフクロウは10メートルも離れていないニレの大木にいた。「私たちを見下ろす鋭い眼光に、凝視できないくらいのパワーを感じ、固まってしまった」。西別川流域で初めてシマフクロウと対面した95年秋のことを、しらいさんは今も鮮やかに思い出す。
 94年に山梨県でのイベントで舘さんと偶然出会って意気投合。翌95年から植樹祭に参加し、コンサートを開いてきた。「この鳥を救いたい」というただそれだけの思いで森づくりを実践している人々がいることに驚き、「歌を通してこの思いを伝えていきたい」と確信した。
 流域コンサートは、西別川源流部の釧路管内標茶町から河口の根室管内別海町まで、川を下るように移動しながら5会場で開いた。大半がしらいさんの歌とメッセージだった。
 「ここでしかない音楽を作って、歌で人が手をつなげるといいな」。そう考えるようになったころ、西別川の源流部のほとりにいると、1曲分のメロディーが思い浮かんだ。これがオリジナル曲「西別川」になった。「まるで神さまが『この歌、歌いなさい』って下さったみたいだった」。
 3年目。しらいさんは「輪が大きくなった」と感じた。流域に暮らす酪農家の姿も目立ってきた。家畜のふん尿などで川を汚しているという意識もあって、自らドアを閉めているようだった酪農家が「川を汚しているから植樹をやってみる」という方向に動き始めた。壁が破られてきた。「音楽の役割ってこういうところにあるんだ」と思った。
 流域コンサートは04年、10回目を迎えたのを契機に幕を閉じた。だが、しらいさんは毎年、西別川を訪れ、住民とともに植樹に汗を流す。「人間は捨てたものではないと思う。どんなに小さいことでも、熱い思いがあれば、不可能と思うこともやってしまう。この会がどんなに大きくなっても、どんな賞をもらっても変わってほしくない。そして未来を引き継ぐ若者がいてほしい」。しらいさんは願う。
http://mainichi.jp/hokkaido/shakai/news/20091022ddlk01040282000c.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする