Newsweekjapan-2016年08月20日(土)12時06分
©一期一會影像製作有限公司
<台湾の東海岸にある集落で大型ホテルの開発計画が持ち上がると、台北で記者として働いていた先住民アミ族の主人公は、仕事を辞めて家族の待つ故郷に戻り、先祖伝来の土地で稲作を復活させるために......。筆者が日本での上映プロジェクトに関わる台湾映画『太陽の子』は、「奪われた側」が「奪われたもの」を取り戻そうとする物語。聴衆に訴えかける異様な説得力を持つこの映画には、台湾政治の核心にも通じるテーマが隠されている>
宜蘭から花蓮を経て台東に至る、全長500キロに達する台湾の東海岸には、台北や台南、高雄などの西海岸とはひと味違った空気が漂っている。
それが何であるのか形容するのは難しいのだが、あえて言えば「明るさ」と「寂しさ」の入り交じった空気なのである。
日本では日本海側のことを「裏日本」と呼んできた。最近はさすがに使われることは少ないが、太平洋側を「表」とする価値観をもとに、日本海側の「暗さ」や「寂しさ」を強調しようとする表現だった。台湾の東海岸は日本と違って太平洋に面したところで、「暗さ」はなくて、むしろ太陽と海に象徴される「明るさ」にあふれている。しかし、「寂しさ」がないわけではない。その「寂しさ」は、花蓮や台東などのホテルや観光地で演じられる、東海岸の先住民(台湾では原住民と呼ばれる)の「伝統芸能」として観光商品化された舞踊や歌唱を観たときに、とりわけ強く感じさせられる。
それが、先住民の「奪われる」という存在がもたらす「寂しさ」であることを気付いたのは、私自身、それほど昔のことではない。「奪う側」にあったのは、現在の中華民国政府であり、日本統治時代の日本政府であり、さらにその前の清朝でもあった。台湾で史前から暮らしていた先住民は、近世以降、奪われっ放しであったと言っても間違いではないだろう。
筆者が日本での上映プロジェクトに関わっている台湾映画『太陽の子』(原題:太陽的孩子)は、そんな「奪われた側」に置かれてきた先住民の一つ、アミ族の人々が「奪われたもの」を取り戻そうとする物語である。
映画の舞台は台湾の東海岸の片隅にある花蓮・港口集落。そこに、中国人観光客を目当てとした大型ホテルの開発計画が持ち上がる。港口集落に家族を残して、テレビ局の記者として台北でヒマワリ運動の取材に奔走する主人公パナイは、開発をめぐって分断される故郷の姿と、自分の存在を必要とする家族に気づき、記者の仕事を辞めて故郷に戻り、ホテル用地となっていた先祖伝来の土地で伝統の方法による稲作を復活させる目標に向かって行動を起こした。
映画のなかで展開される一つひとつのシーンやセリフが聴衆に訴えかける異様な説得力を持っているのは、「奪われたもの」を取り戻すという、この映画を通底するテーマが力を与えているからにほかならない。
「奪われたもの」の一つは、土地であり、農業であり、伝統である。主人公パナイの父が、「土地は奪われたら二度と戻ってこない」と何度も語り、ホテル用地の業者への売却に反対するシーンがある。土地の所有権という概念がなかった彼らが、あの手この手で土地を取り上げられてきた歴史を込めて語っているものだ。土地が奪われれば、農業も営めず、伝統も失われ、先祖との繋がりも切れてしまう。そんなメッセージが込められているのである。
映画のなかで、パナイが伝統の稲作の復活を支援団体の人たちにアピールするための演説がある。この映画の最大の見どころの一つだ。パナイはかつて自分の名前が漢民族の「林美秀」という名前で呼ばれていて、ちゃんとした中国語でスピーチすると、学校で賞をもらったエピソードを明かした。しかし、それは「アミ族でない振り」をしてもらった賞であり、最も望んでいなかったことだったと語る。そして、聴衆に向かって「皆さん、こんにちは。私はパナイです」と呼びかけ、「の稲穂を取り戻したい」と語るのである。パナイとは、アミ語で「稲穂」であり、ここには、伝統との稲作と自分の本来の名前を取り戻すという二重の意味が込められている。
この場面には、この映画の「奪われたもの」を取り戻すというエッセンスのすべてが入っていると言っても過言ではない。先住民の名前の付け方には特別な意味がある。先祖の名前、父母の名前、土地にまつわる事物の名前がつけられることが多い。名前には、その土地に生きてきた部族の歴史とアイデンティティが込められている。その名前を支配者の方針に適応するとの理由で、日本名にしたり、中国語名にしたりしてきた数百年の歴史があった。
いま台湾では法律が改正され、先住民に中国語名を強制させる制度が変えられ、自由に選択できるようになった。若い人の多くは、自らの民族の名前を選ぶとき、戸籍上の漢民族名を先住民語のオリジナルの名前に変更したりしている。主人公パナイを好演したアロ・カリティン・パチラルさんもまた、若いころに自分の名前を漢民族名からアミ族のものに戻した経験の持ち主だ。それだけに、演技においては、自らの体験を投影した迫真の演技となった。もともとは歌手兼テレビの司会者として活躍してきたが、初の映画出演となったこの作品で台湾最高の映画賞である金馬奨で最優秀新人賞にノミネートされるほど高い評価を受けた。
【参考記事】熱狂なき蔡英文の就任演説に秘められた「問題解決」への決意
今年5月に新総統に着任した蔡英文氏は、この8月1日、正式に、過去の先住民政策に対する全面的な謝罪を行って、台湾内外の大きな注目を集めた。なぜ、現職の総統が、人口比でいえばわずか2%に過ぎない50万人余の先住民たちに頭を下げて過去を悔い改めなければならなかったのか。いささか唐突な印象を持った人も多かったのではないだろうか。この蔡英文の謝罪というニュースを理解するカギはこの映画『太陽の子』によって雄弁に語られている。
そう、蔡英文の謝罪は「奪った者」が「奪われた者」に謝る行為だったのだ。具体的な清算の方法はもちろん今後の政策課題となる。しかし、まずは謝罪の先にしか、清算も和解もない。それこそが、あの謝罪の意味だった。『太陽の子』はそんな現代政治の核心まで、我々の思考を連れていってくれる映画である。
*映画『太陽の子』の日本における上映情報はFBファンページからご参照下さい。9月10日から13日にかけて東京、静岡、神奈川などで開かれる上映会では、本作の主演女優であるアロ・カリティン・パチラルさんが来日し、トークや歌を披露します。また本作品の上映プロジェクトについては野嶋剛の公式HPでその経緯や理由を詳しく説明しております。
http://www.newsweekjapan.jp/nojima/2016/08/post-5.php
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/ef/9480d5d16d9ff983adfcda8444ecf651.jpg)
©一期一會影像製作有限公司
<台湾の東海岸にある集落で大型ホテルの開発計画が持ち上がると、台北で記者として働いていた先住民アミ族の主人公は、仕事を辞めて家族の待つ故郷に戻り、先祖伝来の土地で稲作を復活させるために......。筆者が日本での上映プロジェクトに関わる台湾映画『太陽の子』は、「奪われた側」が「奪われたもの」を取り戻そうとする物語。聴衆に訴えかける異様な説得力を持つこの映画には、台湾政治の核心にも通じるテーマが隠されている>
宜蘭から花蓮を経て台東に至る、全長500キロに達する台湾の東海岸には、台北や台南、高雄などの西海岸とはひと味違った空気が漂っている。
それが何であるのか形容するのは難しいのだが、あえて言えば「明るさ」と「寂しさ」の入り交じった空気なのである。
日本では日本海側のことを「裏日本」と呼んできた。最近はさすがに使われることは少ないが、太平洋側を「表」とする価値観をもとに、日本海側の「暗さ」や「寂しさ」を強調しようとする表現だった。台湾の東海岸は日本と違って太平洋に面したところで、「暗さ」はなくて、むしろ太陽と海に象徴される「明るさ」にあふれている。しかし、「寂しさ」がないわけではない。その「寂しさ」は、花蓮や台東などのホテルや観光地で演じられる、東海岸の先住民(台湾では原住民と呼ばれる)の「伝統芸能」として観光商品化された舞踊や歌唱を観たときに、とりわけ強く感じさせられる。
それが、先住民の「奪われる」という存在がもたらす「寂しさ」であることを気付いたのは、私自身、それほど昔のことではない。「奪う側」にあったのは、現在の中華民国政府であり、日本統治時代の日本政府であり、さらにその前の清朝でもあった。台湾で史前から暮らしていた先住民は、近世以降、奪われっ放しであったと言っても間違いではないだろう。
筆者が日本での上映プロジェクトに関わっている台湾映画『太陽の子』(原題:太陽的孩子)は、そんな「奪われた側」に置かれてきた先住民の一つ、アミ族の人々が「奪われたもの」を取り戻そうとする物語である。
映画の舞台は台湾の東海岸の片隅にある花蓮・港口集落。そこに、中国人観光客を目当てとした大型ホテルの開発計画が持ち上がる。港口集落に家族を残して、テレビ局の記者として台北でヒマワリ運動の取材に奔走する主人公パナイは、開発をめぐって分断される故郷の姿と、自分の存在を必要とする家族に気づき、記者の仕事を辞めて故郷に戻り、ホテル用地となっていた先祖伝来の土地で伝統の方法による稲作を復活させる目標に向かって行動を起こした。
映画のなかで展開される一つひとつのシーンやセリフが聴衆に訴えかける異様な説得力を持っているのは、「奪われたもの」を取り戻すという、この映画を通底するテーマが力を与えているからにほかならない。
「奪われたもの」の一つは、土地であり、農業であり、伝統である。主人公パナイの父が、「土地は奪われたら二度と戻ってこない」と何度も語り、ホテル用地の業者への売却に反対するシーンがある。土地の所有権という概念がなかった彼らが、あの手この手で土地を取り上げられてきた歴史を込めて語っているものだ。土地が奪われれば、農業も営めず、伝統も失われ、先祖との繋がりも切れてしまう。そんなメッセージが込められているのである。
映画のなかで、パナイが伝統の稲作の復活を支援団体の人たちにアピールするための演説がある。この映画の最大の見どころの一つだ。パナイはかつて自分の名前が漢民族の「林美秀」という名前で呼ばれていて、ちゃんとした中国語でスピーチすると、学校で賞をもらったエピソードを明かした。しかし、それは「アミ族でない振り」をしてもらった賞であり、最も望んでいなかったことだったと語る。そして、聴衆に向かって「皆さん、こんにちは。私はパナイです」と呼びかけ、「の稲穂を取り戻したい」と語るのである。パナイとは、アミ語で「稲穂」であり、ここには、伝統との稲作と自分の本来の名前を取り戻すという二重の意味が込められている。
この場面には、この映画の「奪われたもの」を取り戻すというエッセンスのすべてが入っていると言っても過言ではない。先住民の名前の付け方には特別な意味がある。先祖の名前、父母の名前、土地にまつわる事物の名前がつけられることが多い。名前には、その土地に生きてきた部族の歴史とアイデンティティが込められている。その名前を支配者の方針に適応するとの理由で、日本名にしたり、中国語名にしたりしてきた数百年の歴史があった。
いま台湾では法律が改正され、先住民に中国語名を強制させる制度が変えられ、自由に選択できるようになった。若い人の多くは、自らの民族の名前を選ぶとき、戸籍上の漢民族名を先住民語のオリジナルの名前に変更したりしている。主人公パナイを好演したアロ・カリティン・パチラルさんもまた、若いころに自分の名前を漢民族名からアミ族のものに戻した経験の持ち主だ。それだけに、演技においては、自らの体験を投影した迫真の演技となった。もともとは歌手兼テレビの司会者として活躍してきたが、初の映画出演となったこの作品で台湾最高の映画賞である金馬奨で最優秀新人賞にノミネートされるほど高い評価を受けた。
【参考記事】熱狂なき蔡英文の就任演説に秘められた「問題解決」への決意
今年5月に新総統に着任した蔡英文氏は、この8月1日、正式に、過去の先住民政策に対する全面的な謝罪を行って、台湾内外の大きな注目を集めた。なぜ、現職の総統が、人口比でいえばわずか2%に過ぎない50万人余の先住民たちに頭を下げて過去を悔い改めなければならなかったのか。いささか唐突な印象を持った人も多かったのではないだろうか。この蔡英文の謝罪というニュースを理解するカギはこの映画『太陽の子』によって雄弁に語られている。
そう、蔡英文の謝罪は「奪った者」が「奪われた者」に謝る行為だったのだ。具体的な清算の方法はもちろん今後の政策課題となる。しかし、まずは謝罪の先にしか、清算も和解もない。それこそが、あの謝罪の意味だった。『太陽の子』はそんな現代政治の核心まで、我々の思考を連れていってくれる映画である。
*映画『太陽の子』の日本における上映情報はFBファンページからご参照下さい。9月10日から13日にかけて東京、静岡、神奈川などで開かれる上映会では、本作の主演女優であるアロ・カリティン・パチラルさんが来日し、トークや歌を披露します。また本作品の上映プロジェクトについては野嶋剛の公式HPでその経緯や理由を詳しく説明しております。
http://www.newsweekjapan.jp/nojima/2016/08/post-5.php