さぁ、昨年10月から始まりました坂東三十三箇所の札所巡りも最後。
三十三の札所すべてを巡り終えることを「結願」(けちがん)といいます。
ですので、今回の補陀洛山那古寺は「結願寺」などとも言うようです。
本来であれば鎌倉にある第一番の札所である杉本寺からはじめて「発願」し、
順番に札所を巡って今回で「結願」というのが正式なものですが、
現在ではなかなかこの通りにはいかないようです。
とはいえ、やはり最後はここで締めくくりたいという思いがあったので、
三十三箇所の最後はここで。
那古寺は房総半島の最南端にあたる館山のちょっと手前にあります。
海を望む小高い山の上に本堂が築かれています。
山自体は、平安時代の歌人、和泉式部にゆかりがあるそうで、
そこらじゅうに石碑や記念碑が立っていました。
その本堂のある場所からは南房総の海がきれいに見渡すことができ、
ちょうど夏の晴れた日だったこともあって、美しい展望が。
しっかりとお参りを済ませて、納経所にいってご朱印をいただこうとすると、
やはり結願の寺だけあって、さっそく「結願でいらっしゃいますか?」と。
その旨を伝えると、ねぎらいの言葉とともに、
結願した人のみに伝える話がある、としていくつかのお話をいただきました。
詳細は省略しますが、簡単に言うと一度すべてを周り終わったとしても、
それは終わりではなくて単なる通過点に過ぎないだけだ、と。
すごい人になると、50回近くも三十三箇所の巡礼をしてるんだそうな。
1回だけでは見えてくるものと見えてこないものがある、と。
そんなようなお話でした。
●基本情報●
名称:補陀洛山 那古寺(那古観音)
宗派:真言宗智山派
本尊:千手観世音菩薩
開基:行基菩薩
創立:養老元年(717)
住所:千葉県館山市那古1125
とまぁ、そんなこんなで三十三箇所巡礼の旅が終わりました。
最初はかなり軽い気持ちで始めたわけで、
何か願掛けをしてどうこうということはなかったんですが、
一通り終えてみたことによって、やはり自分なりに得たものがあったような。
それは別に信心深くなったとかそういうことではなくて、
昔の旅人たちがどのような思いでこの旅路を歩いたんだろう、とか、
どんな気持ちでこの寺に詣でたんだろう、とか、
ある種の信仰の歴史の一端を見ることができたような気がします。
それ以外にも、お堂に上がって住職のお話を伺うとか、
そういう経験は今までにはなかったわけですから、
そんな出会いから得られたものもたくさんありました。
多くの人と会い、いろいろな話をしました。
それだけでもこの10ヶ月間、いろいろなものを見て、感じてきた意味はあるのかなと。
最後に話をいただいた住職の話を受けて、
時間を見つけてもう1度三十三箇所を巡ろうと思いました。
それはすぐ、ではなくていずれかしての後になるはずですが。
今度は違った視点で、違った感じ方で巡礼ができればいいなぁ、と。
恐懼謹言。
三十三の札所すべてを巡り終えることを「結願」(けちがん)といいます。
ですので、今回の補陀洛山那古寺は「結願寺」などとも言うようです。
本来であれば鎌倉にある第一番の札所である杉本寺からはじめて「発願」し、
順番に札所を巡って今回で「結願」というのが正式なものですが、
現在ではなかなかこの通りにはいかないようです。
とはいえ、やはり最後はここで締めくくりたいという思いがあったので、
三十三箇所の最後はここで。
那古寺は房総半島の最南端にあたる館山のちょっと手前にあります。
海を望む小高い山の上に本堂が築かれています。
山自体は、平安時代の歌人、和泉式部にゆかりがあるそうで、
そこらじゅうに石碑や記念碑が立っていました。
その本堂のある場所からは南房総の海がきれいに見渡すことができ、
ちょうど夏の晴れた日だったこともあって、美しい展望が。
しっかりとお参りを済ませて、納経所にいってご朱印をいただこうとすると、
やはり結願の寺だけあって、さっそく「結願でいらっしゃいますか?」と。
その旨を伝えると、ねぎらいの言葉とともに、
結願した人のみに伝える話がある、としていくつかのお話をいただきました。
詳細は省略しますが、簡単に言うと一度すべてを周り終わったとしても、
それは終わりではなくて単なる通過点に過ぎないだけだ、と。
すごい人になると、50回近くも三十三箇所の巡礼をしてるんだそうな。
1回だけでは見えてくるものと見えてこないものがある、と。
そんなようなお話でした。
●基本情報●
名称:補陀洛山 那古寺(那古観音)
宗派:真言宗智山派
本尊:千手観世音菩薩
開基:行基菩薩
創立:養老元年(717)
住所:千葉県館山市那古1125
とまぁ、そんなこんなで三十三箇所巡礼の旅が終わりました。
最初はかなり軽い気持ちで始めたわけで、
何か願掛けをしてどうこうということはなかったんですが、
一通り終えてみたことによって、やはり自分なりに得たものがあったような。
それは別に信心深くなったとかそういうことではなくて、
昔の旅人たちがどのような思いでこの旅路を歩いたんだろう、とか、
どんな気持ちでこの寺に詣でたんだろう、とか、
ある種の信仰の歴史の一端を見ることができたような気がします。
それ以外にも、お堂に上がって住職のお話を伺うとか、
そういう経験は今までにはなかったわけですから、
そんな出会いから得られたものもたくさんありました。
多くの人と会い、いろいろな話をしました。
それだけでもこの10ヶ月間、いろいろなものを見て、感じてきた意味はあるのかなと。
最後に話をいただいた住職の話を受けて、
時間を見つけてもう1度三十三箇所を巡ろうと思いました。
それはすぐ、ではなくていずれかしての後になるはずですが。
今度は違った視点で、違った感じ方で巡礼ができればいいなぁ、と。
恐懼謹言。