黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

 我が町(阿南市)紹介シリーズ 第8回 出島野鳥園その他

2016年11月15日 20時56分34秒 | その他


                

       

 



 我が町紹介シリーズも第8回に成ると「今度は何処にしようか?」と考えねば成らない様に成って来た。阿南市にも沢山の町が有るが人口1万人を越えた町は私の生まれた羽ノ浦町(13210人)と隣町の那賀川町(11230人)だけ阿南市全体で人口は76407人(30059世帯)と成って居り2町で全体の約32%を占める。元々此の二つの町は徳島県の中でも人口の多い町で単独の町として行政が長く続いて居た事も有って其々に在所名は沢山有るのだが町が小さく分かれなかったので一町当たりの人口が多いのだろう。然し平成の大合併の気運と同時に一番コストと手間の掛かる生ゴミの回収事業や屎尿処理施設を町単位で運営する事の難しさも有って一番最後の段階で同時に阿南市に吸収合併された。この地区は元々は旧の那賀郡に属しこの那賀郡は剣山の麓から紀伊水道の海岸線に至る細長いが広大な面積を有する郡で有り嘗ては5町2村を有する郡で有ったが平成の大合併前後で1郡1町に成り大きく様変わしアマチュア無線の移動運用を考えると町村が減り徳島県下で無線的には一番面白く無くなったエリアである。


 羽ノ浦町は昔から県南方面への交通の要所として栄えた町であったが最近は此の町の中心部を通らず町の手前から那賀川町の田園地帯を一直線に阿南市の中心地へ抜けるバイパス道路が開通してからは「通行道路が変われば町が変わる」と言われるが如く県南部(阿南市や海部郡)へ向かう車は大半が那賀川町を通過する為に人と車の流れの様相がガラリと変わってしまった。従って前のブログの道の駅「公方の郷」も此のページの最初の写真の阿南科学センターやコートベール徳島ゴルフクラブや阿南市役所那賀川B&G海洋センター、出島野鳥園等の文化施設の大半はこのバイパス道路の海岸線側に集中している。最初の写真の科学センターは那賀川町が多分未だ阿南市に合併しない前の時期に「故郷創成費用」(漢字変換が間違って居るかも?)として日本全国の各町村に配られた1億円で天体観測ドームを建設したと思うので生え抜きの町民だと阿南市が頭に付くのは納得出来ない人達も居るのでは?(勘違いしてたら御免なさい)B&G海洋センターも同じくB&G財団から那賀川町政時代に寄贈された物で私達も剣道の試合等で良く利用したので此れは間違いが無いと思う。


 今回、此れ等の写真を撮りに行った段階で科学センターに止まった大型バスから小学生が徒歩でゴルフ場のある海岸の方へ歩いて居たので其の後を追ったら出島野鳥園に向かって居た。私は此の施設の存在は全く知らなかったので「へぇ~こんな場所が有ったのだ!」と子供達が帰った後でユックリ見学したが二番目の写真の場所から野鳥を見学出来る様に成って居て暫く見学して居たが鳥達はのんびりと池を泳いで居て30分間位の時間は何の変化も無い状態・・・・・カメラを三脚に固定して待ち構えて居たので悪いとは思ったが近くの水際に石を投げて水音で驚いて飛び立つ瞬間の写真が撮りたく成って窓の小さい隙間から石を投げ出そうとしたら手元が狂い内側の壁に当たって跳ね返った石がカメラの数十センチの近くに跳ね返りあわや虎の子のカメラをパァ~にする所で有った。然し懲りない爺さん今度は声で鉄砲の音真似をしたが鳥達は全く動ぜず変化は無く仕方なく諦めて出て来たら同年輩の人が駐車場に居て多分私の大人気無い声が聞こえて居たのだろうニヤニヤ笑って居たので恥ずかしい事此の上無い。今回の私の所業は鳥の観察をする人として遣っては成らぬ事をしてしまったので大反省する事と成った。


 科学センターの中には小学校の子供の見学が多かったので観測ドームの内部や望遠鏡の見学は見合わせたが夏場に家族を対象とした夜の観望会の案内が広報に載って居るので星の好きな家内を誘って一度訪れたいと思って居る。町の人口では勝っても文化施設面では私の生まれた町は及ばない事を実感した。



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 我が町(阿南市)紹介シリーズ第7回  道の駅「公方の郷」

2016年11月15日 20時22分40秒 | その他


     

 

 
 阿南市内の那賀川町に阿南市で唯一の道の駅「公方の郷」が在ります。その昔、10年にも及ぶ応仁の乱以後は天下は乱れ中学時代に歴史の教科書で習った室町から安土桃山時代に至る段階で下克上の風潮が漲り侍の総大将である征夷大将軍の権威は地に落ちた。室町時代の第10代将軍 足利義たね(漢字変換は出来ず)は其の管領の細川高国の専横に憤って淡路島ー阿波国(徳島県)に流れ再度の上洛を企てたが果たせず此の地で没した。


 10代将軍には子供が居なかったので11代将軍の義澄の子供の義冬を養子に向かえ足利義冬とした。其の後に義冬は足利幕府で勢力の有った阿波勢の後ろ楯で上洛を果たしたが其の阿波勢が天文元年の京都での戦いで敗れたので阿波の細川持隆に当時の足利氏由縁の天竜寺領の阿波の国、平島庄(現在の阿南市那賀川町古津)に移り住んだ。此の人が初代平島公方の義冬である。其の義冬は再度の上洛は果せなかったが其の子の義親が当時に勢力があった三好三人衆の(三好長逸、三好政康、岩成友通)後ろ楯で1568年に上洛を果たし室町幕府の第14代の将軍と成ったが戦国時代の風雲児の織田信長が足利義昭を奉して上洛した時の戦いで三好三人衆は破れ後ろ盾の無くなった義親は再び阿波の国に帰り病死した。(此の三好3人衆の一人である三好政康は織田勢に敗れた後、今NHKの大河ドラマの真田幸村の家来として大阪の陣の時に大阪方に参戦した真田十勇士の一人の三好青海入道のモデルと言われている。)


 其の義親の弟である義助は平島館にあって秘かに上洛の機会を伺って居たが頼みの綱の京都に於ける阿波勢が信長に寄って壊滅させられ三好氏も土佐の長宗我部元親の侵入に会い滅亡してしまうと後ろ楯を失い自分も武力を持って居なかったので悲しいかな義助の上洛の野望は果敢無くも潰えた。当時は3000石有った平島公方の所領は江戸時代に入り阿波の藩主であった蜂須賀家に公方の禄を百石まで減領され足利姓を名乗る事も許されず平島と改名させられ其の後270年の歳月を此の地で過ごしたが遂に九代目の義根に至ってその思いは爆発して蜂須賀家に増禄を申し出たが聞き入れられず憤慨し阿波国を退去して1805年に紀州に渡り其の後に京都へと帰って行った。


 四国の三好氏は室町幕府の時代には絶大な力を持っていたが松永弾正(三好氏は弾正の主家筋に当たる)と組して暴れて居たが途中で仲互いをして松永弾正に暗殺や諜略される。弾正は織田信長(此の叔父さんも結構、既成概念をぶ壊したある意味での悪人だが)にして稀代の悪人と言わしめる生粋の戦国時代のヒールと言われている。



 其れまで誰もが出来なかった事を三つも成した男

 ・ 主家三好氏への暗殺と諜略

 ・ 将軍 足利義昭の暗殺 (織田信長も此のオッチャンの日和見には手をやいた)

 ・ 奈良東大寺を代表とする奈良時代からの文化財を焼き討ち(信長も比叡山を焼き討ち根絶やしにしたので人の事は言えない)

 此の過去の既成概念や過去からの しがらみ等を全く気にせず事に望む気質が自分に似ている事から信長は気に入って居たのか名器の茶釜が余程欲しかった性か?織田信長は一度自分を裏切った者は絶対に許さなかったと言われて居るが此の松永弾正だけは一度目の裏切りを許したが性懲りも無く二回目の裏切りを行った際も松永弾正が持って居た名器の「古天明平蜘蛛」の茶釜が欲しくて「差し出せば今回も許す」と言ったが弾正さん此の茶釜に爆薬を詰めて「この平蜘蛛の釜と俺の首の二つは やわか信長に見せさせるものかわ」の時世の句を残し文献上では日本初の爆薬で壮烈な爆死をした人物として歴史に名を残した。


 此の現在の阿南市の一角に嘗ては足利氏の流れを受け継ぐ人達が居て「平島公方」と呼ばれて居たらしい事は私の生まれた町に(那賀川町の隣町の羽ノ浦町に)「公方饅頭」と言う銘菓が有り「丸に二つ引きの足利の家紋」が焼印してある美味しい饅頭は子供の頃から知って居たが今回、此の歳に成って初めて平島公方の歴史を調べてみたら思わぬ所で此の様な田舎にも織田信長や最後の15代足利将軍の足利義昭との関係が有る事が解って面白かった。










































































































































































































































                                                  
                                                                                                                      

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 T30(W Kiribati Is)がアクティブに運用中

2016年11月15日 07時04分08秒 | アマチュア無線


 昨日は早朝から8時頃まで各周波数帯をチェックしたのも関わらずDX局との交信は一局も出来ずに終ってしまった。午前中は外出して帰った13時頃からはブログを書き込みながら無線機のお守りをして居たら14:40JST辺りから日本の方の運用と思うが南太平洋からの運用が各周波数に分散した形で有り何とか交信する事が出来た。




              今朝の交信


    T30KJ(21,CW)  T30MA(24,CW)  T30VE(18,CW)


    T30JY(28,CW)  V6EME(18,SSB)

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