徳島に帰ってから実家で5ヶ月に渡り間居候をしたので就職先が決まり仕事へ行き出すと 大手を振って無線の再開準備が可能に成った。実家に居るとはいえプー太郎の身分で無線三昧とはいかなかった。兄が張ってあるアンテナが有ったのでFL-50BとFR-50Bの封印を解き机の上に並べた。受信してみると学生時代とうって変り 全数に近い局が電波形式がSSBに移行していた。
兄は徳島県の那賀奥の道路やトンネルの現場へ技術担当者として4年程、山篭りしていたが夜な夜な3.5MHzで面白い話をしていた。大人の話なので私は御付き合いが出来なかったが高知のJA5BFMさんJA5DOAさんと毎夜危ない話を全国放送していた。当時兄は確かTS-510を使用していたと記憶している。
兄も時々、家に帰ると144MHz帯で私の工業高校時代の恩師のJA5AKD 川原先生や 先輩の島さんが(JA5BIF)JA5APTさんの活弁の後にギターを弾きながら歌って居た。川原先生のギターが上手なのは在学中から知っていたが先輩がアコーデオンやギター演奏しながら演歌を歌うのは初めて聞いた。
此の時代の事は可也過去の話なので時系列がハッキリしないが?この頃から144MHz帯の電波が聞こえる様に成った 最初はメーカー製の機械など無かったのでタクシー無線に使用していたJRCの無線機などを改良、水晶発振子を交換、調整した無線機を使用してローカルQSO(内内の話)をしていた。
此の時期に144MHzの交信を通じてJA5HT庄野さんと知り合う事が出来た(初対面は学生時代に全市全郡コンテストで那賀郡のマルチが必要で交信依頼が有りログを出すため用紙を貰いに行った事があった。)一応、面識は有ったが無線の上では雲の上の人だった。兄と年恰好が近かったので後日親交があり遊びに行くから一緒に行こうと誘われた。学生時代はローカル局に怖い人だと聞いていたが兄の同行もあり色々と見せて貰ったりした。それ以来25年間親しく御付き合いして頂いたが私に無線の上で大きな影響を与えた1人である。DXやコンテストに対する興味やコリンズの無線機に関してなど、書き切れないほど影響を受けた。
庄野さんはコンテストにも取組まれて居て全市全郡コンテストでは優勝や準優勝の経験が有ると聞いていた。ハイパワーでは全国で有名で私が徳島に帰った当時で(40年前)4-1000Aパラレルのリニヤがシャックに鎮座していた。武勇伝も色々有って私が高圧トランスを巻いて貰って受取りに行った時(1次の電圧タップを沢山 出してもらった)2次側の巻線を素手でつかみ「よお 来よるわ、合格!」言った時は流石に唖然とした。最低でも電圧は400Vは有ったと思う。亡くなる少し前、沖縄の嘉手納に有ったログペリ・オーデックアンテナを手に入れられ3.5MHzでDXをやるので舎弟(何時も私をそう呼んで可愛がってくれた。)手伝いに来いと呼出され一緒にタワーの組立てやアンテナの取付に行ったのが此れが最後の御付き合いに成った。高さ25mHのタワーの上に完成したアンテナを見上げて居た時の嬉しそうな顔は今でも忘れられない。(アンテナは24エレ ブーム24m アンテナ重量が350Kgのビッグアンテナだった。)その後、全国級の人が解体し持ち帰ったらしいが私は其のアンテナが上がった話は聞いていない。
私の無線の師匠は、お酒が大好きで無線の話と成ると時間を忘れ熱く語る実に愛すべき人であった。一度、朝から遊びに行き昼御飯、夕御飯まで御馳走に成り帰して貰えず午前様に成った事が有りました。其れ以後は奥さんから「太郎さんが来たから今日は仕事に成らないね」と笑いながらよく言われた。
生前に二人の間に約束事が二つ有った。一つは私の結婚が決ったら結婚式には必ず呼ぶ事、2つ目は私が世界の全カントリーと交信出来たら庄野さんが一席設ける事、一つ目は達成できたが二つ目は御元気な内に報告する事が出来なかった。後5年ほど御元気だと、きっと喜んで貰えたであろうに此の事は残念でならない。当時の私は「井の中の蛙大海を知らず」状態で未だ大海は知らなかったが知ろうとする所にまでに私を引上げてくれた無線関係の大恩人である。