先日、松江市教委による《はだしのゲン》の検閲行為が問題になりましたが、それに関連するかたちで今朝のテレビ番組で、最近の子供たちに読み聞かせする日本の昔話の結末が、親達が知っているものに比べてかなりマイルドになっているということが取り上げられていました。
私が子供の頃に読んだ《さるかに合戦》や《かちかち山》では、悪事をはたらいたサルやタヌキが散々に懲らしめられた上で誅されますが、今の絵本ではサルもタヌキも平伏して謝った挙げ句、皆と仲良く暮らしましたとさ…という『ハッピーエンド』で終わっています。その違いについて取材に応じた某出版元は「特に寝かしつけるために読み聞かせる時に、残虐な終わり方を避けることによって、子供たちが怖い夢を見てしまわないように配慮しました」と、真顔で答えていました。
こういう話の導入に松江市の話を使うのも如何なものかと、製作者サイドのセンスにも疑問を感じましたが、またしても頭のいい人たちによる『教育的配慮』という先回りがされたことについては今更驚きもしませんでした。ただ、このことで取材する側にもされる側にも、そしてスタジオでコメントする側にも決定的に欠落していたことの一つが、これらの物語が成立していった上での仏教的思想観です。
特に江戸期に入ってから、江戸幕府の戸籍の統轄方針として全ての人々が各近隣寺院の檀信徒に組み入れられ、そこの寺子屋で読み書きを習ったり法事で集まったりしていました。その時に、寺の住職から経典に基づいた《地獄草子》等の因果応報の物語を聞かされて、それによって子供たちが道徳や倫理観を学んでいった歴史があるわけです(これは海外でも同じことで、例えば一時期話題になった初版のグリム童話集に、中世ヨーロッパに蔓延したキリスト教原理主義に基づく魔女狩りの様子が色濃く反映されているのと同じです)。
いずれの場合にも言えることは『宗教観を無視してこれらのことは語れない』ということと『子供は大人の言動や行動を、大人たちが思う以上によく見ているよ』ということです。子供というのは周りの大人たちに対して低い目線から見上げながら、大人たちの行動や言動をじ~…っと見て、自分なりに点数をつけているものなのです。そのくらいの冷静な視点というものを持ち合わせている子供たちに対して大人が姑息なことをすると、子供たちは簡単に×印つけているものなのです。
《はだしのゲン》のことにしても、これらの昔話のことにしても、大人たちが教育的配慮などという『逃げ』の論理に安易に走らずに、しっかりと内容と成立した宗教観的経緯を理解した上で、その『真意』を教えてあげさえすればいいことなのですから、もっときちんと子供たちと向かい合ってもらいたいと思って止みません。
私が子供の頃に読んだ《さるかに合戦》や《かちかち山》では、悪事をはたらいたサルやタヌキが散々に懲らしめられた上で誅されますが、今の絵本ではサルもタヌキも平伏して謝った挙げ句、皆と仲良く暮らしましたとさ…という『ハッピーエンド』で終わっています。その違いについて取材に応じた某出版元は「特に寝かしつけるために読み聞かせる時に、残虐な終わり方を避けることによって、子供たちが怖い夢を見てしまわないように配慮しました」と、真顔で答えていました。
こういう話の導入に松江市の話を使うのも如何なものかと、製作者サイドのセンスにも疑問を感じましたが、またしても頭のいい人たちによる『教育的配慮』という先回りがされたことについては今更驚きもしませんでした。ただ、このことで取材する側にもされる側にも、そしてスタジオでコメントする側にも決定的に欠落していたことの一つが、これらの物語が成立していった上での仏教的思想観です。
特に江戸期に入ってから、江戸幕府の戸籍の統轄方針として全ての人々が各近隣寺院の檀信徒に組み入れられ、そこの寺子屋で読み書きを習ったり法事で集まったりしていました。その時に、寺の住職から経典に基づいた《地獄草子》等の因果応報の物語を聞かされて、それによって子供たちが道徳や倫理観を学んでいった歴史があるわけです(これは海外でも同じことで、例えば一時期話題になった初版のグリム童話集に、中世ヨーロッパに蔓延したキリスト教原理主義に基づく魔女狩りの様子が色濃く反映されているのと同じです)。
いずれの場合にも言えることは『宗教観を無視してこれらのことは語れない』ということと『子供は大人の言動や行動を、大人たちが思う以上によく見ているよ』ということです。子供というのは周りの大人たちに対して低い目線から見上げながら、大人たちの行動や言動をじ~…っと見て、自分なりに点数をつけているものなのです。そのくらいの冷静な視点というものを持ち合わせている子供たちに対して大人が姑息なことをすると、子供たちは簡単に×印つけているものなのです。
《はだしのゲン》のことにしても、これらの昔話のことにしても、大人たちが教育的配慮などという『逃げ』の論理に安易に走らずに、しっかりと内容と成立した宗教観的経緯を理解した上で、その『真意』を教えてあげさえすればいいことなのですから、もっときちんと子供たちと向かい合ってもらいたいと思って止みません。