はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

吉野山に西行庵を訪ねて

2017-04-28 19:27:27 | 山歩き
今年も桜を追いかけて、あちらこちらと旅をしました。私も含めて日本人は、どうしてこうも桜が好きなんでしょう。
ところで、桜を愛した歌人といえば、西行さんが思い浮かびます。西行さんは辞世の歌で「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」と詠っているくらいですから、よほど桜を愛していたのでしょう。その西行さんは、32歳の頃(1149年)、吉野山・高野山の庵で3年ばかり過ごしていました。時代は、保元の乱・平治の乱を経て平清盛が政権を握る少し前のことです。

今回は、その西行庵を訪ねました。吉野の桜狂想曲も落ち着いてきた4月24日のことです。しかし、奥千本はなんとか踏ん張っていてくれました。


如意輪寺から歩きはじめました。少し登ると下の方に金峰山寺蔵王堂が見えます。もう少し早ければ、眼下には、桜の海が広がっていたことでしょう。


歩きはじめて50分ほどで、吉野水分神社に到着です。朝早かったせいか、桜もおわったせいなのか、静かな山歩きを楽しむことが出来ました。


この神社は、「よしのみくまりじんじゃ」と読みます。りっぱな社殿です。


吉野水分神社から車道を歩くこと30分で、金峰神社の修行門に到着です。林からはウグイスの囀りが聞こえます。ところが、静かだったのはここまででした。中千本からここまでは、マイクロバスが運行されており、ちょうどバスが着いたところで、20人ほどの人が降りてきました。


ここから、今回の目的地の西行庵までは、山道を20分ほどの道のりです。実は、370年ほど前に、ここを歩いて西行庵を訪ねた旅人がいるのです。そう、我が芭蕉さんです。芭蕉さんは、今で言うところの(西行さんの)追っかけみたいな人です。芭蕉さんは2度吉野を訪れているのですが、はじめてこの地を訪れたのは、『野ざらし紀行』での、秋のことでした。


その時のことを、「ひとり吉野の奥にたどりけるに、まことに山深く、白雲峰に重なり、煙雨谷を埋めて、山賊の家処々にちいさく…西上人の草の庵の跡は、奥の院より二町程わけ入りて、柴ひとの通ふ道のみわずかに有りて、さがしき谷をへだてたる…。」と書いています。私もその道をたどって行きます。


たしかに嶮しい山道を越えると、やっと西行庵に着きました。もちろん800年以上も前の庵が残っているはずもありませんが、こうであったと思われる庵が再建されていました。いずれにせよ、西行さんが暮らし、芭蕉さんが訪れた場所に、私も立つことができました。


西行庵あたりの桜です。桜好きの西行さんも、この桜を見て心も落ち着かなかったことでしょう。「吉野山こずえの花を見し日より心は身にも添はずなりにき」という歌に、気持ちがよくあらわれています。


さて、芭蕉さんの2度目の吉野は、前回から4年後の桜の咲く頃でした。『笈の小文』には、「よしのの花に三日とどまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて…われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとじたる、いと口をし。…」と記しています。結局吉野では、桜の句をつくらなかったようです。


私も桜を愛でながら、おにぎりをいただきました。気分は、まさに芭蕉です。あとは、ゆっくりと下山するだけです。先ほどは通り過ぎた金峰神社にお詣りをしました。ここにもりっぱな桜がありました。


如意輪寺のあたりまで下りてきました。ここも少し前は、賑やかな山肌だったことでしょう。
今回は、吉野の桜を楽しむ山歩きでしたが、西行さんや芭蕉さんの足跡を辿る山歩きでもありました。


最後に、芭蕉さんと桜といえば思い出す句があります。
「さまざまなことおもひだす桜かな」
この句は、2度目の吉野行きの途中、故郷の伊賀上野で詠まれた句です。22年ぶりに花見に招かれた芭蕉さんですが、さまざまなことが、胸の内に去来したことでしょう。誰にでもつくれそうな気がしますが、やはり芭蕉さんにしかつくれない名句だと思います。

※訪問日 4月24日