先日、多武峰に行こうと明日香に行きました。ところが、明日香から多武峰に向かう道路は、台風で通行止になっていました。
しかたがないので、明日香で古墳見物をすることにしました。行ったのは天武・持統天皇陵です。陵墓の名は檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)で、古墳名は野口王墓(のぐちおうのはか)古墳です。
古墳の話は以前に何回か書きましたが、葬られている人物がはっきりしているのは非常に少ないのだそうです。ところが、この天武・持統天皇陵は、被葬者が確実な古墳のようです。
天武天皇といえば、あの大化の改新の天智天皇の弟で、のちに壬申の乱を経て皇位についた天皇です。持統天皇は、天武のお妃で藤原京を道営した天皇です。共に古代日本の礎を築いた人物と言えるでしょう。
古墳で盗掘されていないものは、ほとんどないそうですが、この古墳も盗掘されていました。しかし、そのおかげで被葬者がはっきりしたようです。それは、盗掘の後に古墳の内部を調べた記録『阿不幾乃山陵記』(あおきのさんりょうき)が、発見されたことによるものです。そこには、古墳の内部の様子が細かく書かれていました。
持統天皇は、天皇として初めて火葬に付されたことや、天武天皇陵に合葬されたことなどが『続日本紀』に書かれています。それが『阿不幾乃山陵記』に書かれていた古墳内部の様子と合致したことによって、ここが天武・持統天皇陵であることが判明したというわけです。(それまでは、近くの大きな前方後円墳である「見瀬丸山古墳」とされていました。)
古墳や天皇陵といえば、大規模な前方後円墳を思い浮かべるのですが、天武天皇の時代は方墳(正確には八角形)へと姿を変えていました。天武・持統天皇陵の近くには、壁画で有名になった「高松塚古墳」があります。この古墳の被葬者も確定しておらず、被葬者を考えるのも歴史ロマンがあって面白いです。
長閑な明日香の風景は、心が和みます。古代の人々も、同じような風景を見ていたんだろうなと考えると、楽しくなってきます。これが明日香を歩く魅力なんでしょう。
※訪問日 10月31日
しかたがないので、明日香で古墳見物をすることにしました。行ったのは天武・持統天皇陵です。陵墓の名は檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)で、古墳名は野口王墓(のぐちおうのはか)古墳です。
古墳の話は以前に何回か書きましたが、葬られている人物がはっきりしているのは非常に少ないのだそうです。ところが、この天武・持統天皇陵は、被葬者が確実な古墳のようです。
天武天皇といえば、あの大化の改新の天智天皇の弟で、のちに壬申の乱を経て皇位についた天皇です。持統天皇は、天武のお妃で藤原京を道営した天皇です。共に古代日本の礎を築いた人物と言えるでしょう。
古墳で盗掘されていないものは、ほとんどないそうですが、この古墳も盗掘されていました。しかし、そのおかげで被葬者がはっきりしたようです。それは、盗掘の後に古墳の内部を調べた記録『阿不幾乃山陵記』(あおきのさんりょうき)が、発見されたことによるものです。そこには、古墳の内部の様子が細かく書かれていました。
持統天皇は、天皇として初めて火葬に付されたことや、天武天皇陵に合葬されたことなどが『続日本紀』に書かれています。それが『阿不幾乃山陵記』に書かれていた古墳内部の様子と合致したことによって、ここが天武・持統天皇陵であることが判明したというわけです。(それまでは、近くの大きな前方後円墳である「見瀬丸山古墳」とされていました。)
古墳や天皇陵といえば、大規模な前方後円墳を思い浮かべるのですが、天武天皇の時代は方墳(正確には八角形)へと姿を変えていました。天武・持統天皇陵の近くには、壁画で有名になった「高松塚古墳」があります。この古墳の被葬者も確定しておらず、被葬者を考えるのも歴史ロマンがあって面白いです。
長閑な明日香の風景は、心が和みます。古代の人々も、同じような風景を見ていたんだろうなと考えると、楽しくなってきます。これが明日香を歩く魅力なんでしょう。
※訪問日 10月31日