はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

親切な?誤転送

2008-01-05 21:36:08 | アカショウビンのつぶやき
 年賀葉書に混じって、全然知らないK市の方から私宛の封書があった。
「何だろう」と訝しく思いながら開き、お手紙の内容に驚いた。
 ええーっこんなこともあるんだーと。
 封書の中には、昨年末、私が市内のIさんに出したお礼状とお礼の品がそのまま同封されていた。
 そして丁寧な文字で綴られたお便りによると
 10月に引っ越した私の知人Iさんの家には、平成18年末まで同姓のIさんが住んでおられたらしい。さらにその方と同居していた叔母様のお名前が千鶴子さんで、私の知人も千鶴子さん。
 私の手紙は、郵便局に転送届けを出して居られたK市のIさん宅に、何の疑いもなく転送されてしまったという次第。
 K市のIさんも、「誰からだろう」と一瞬思ったけれど、開けてみてびっくり(>_<)だったと。
 年末年始の忙しさにまぎれ、返送が遅くなったことを丁寧に詫びたお便りだった。
 こればかりは、どうしようもない誤転送というわけか。御迷惑をかけたお詫びを早速書かなければ。それにしても色々あるんだなあ。

載っちゃった(^O^)

2008-01-05 20:42:29 | アカショウビンのつぶやき
 「はがき随筆愛読者」を貫き通し、テーマは次々浮かぶにもかかわらず、250文字に纏めるのが面倒で何年も投稿をサボり続けていた私。
 それが昨年末の「新年特集」作品募集の記事に引きつけられ遠い日の思い出をまとめ「ボツは覚悟で送ります」なんて、わざわざ添え書きまでして(>_<)送った。
 ところが、1月4日の地方面の6編の中にあるではないか。やはり年末は忙しくて常連さんが出さなかったんだろうなあ…と納得。これで「歌を忘れたカナリアだね」といわれ続けた私もやっと1編うまれました。

つかの間の正月

2008-01-05 20:22:53 | はがき随筆
 老夫婦にとって正月の楽しみは何といっても子供や孫の来訪である。平生の2人の会話は極めて単調であるが、子や孫が加わるとにわかににぎわい、家中が活気づく。
 しかし、それぞれ仕事や家庭のある子たちの滞在はせいぜい2.3日である。つかの間の正月のにぎわいは以前にもまして静まり、虚無感さえ味わう。
 思い返してみれば、今を去ること何年か前、自分も両親に同じような思いをさせてきたような気がする。たしかに歴史は繰り返される。
 それでも老夫婦にとって子や孫と会える正月は無上の喜び。
   志布志市 一木法明(72) 2008/1/5毎日新聞鹿児島版掲載

新年特集 (上)

2008-01-05 19:00:21 | はがき随筆
 毎日新聞鹿児島面の人気コーナー「はがき随筆」で、新年にちなんだテーマ特集の作品を募集しました。採用された作品のうち、6編が 「新年特集 上」 として、2008/1/4 毎日新聞鹿児島版に掲載されました。

   「一人だけの正月」   霧島市 野茂茂樹(58)
 一人っきりの正月は、還暦間近の男には相当こたえる。妻は日・祭日は近所でパート。一人娘は嫁いで2年になる。ついのすみかにと静岡から霧島の別荘地へ夫婦二人で永住してから8回目の正月である。温泉も引き込み、いろりもあつらえ「毎日が日曜日」のぜいたくな暮らしなのだが、世間様が家族単位で浮かれている正月に、男一人がぽつねんと留守番はやはり哀愁を誘う。確か大学受験を控えた高3の正月も、病院で一人寂しくペッドに横たわっていた。まあ私たち団塊の世代も「死ぬ時ゃ1人」の予行演習が、現実味を帯びてきたということか。
  

   「兄ちゃんの休暇」   鹿屋市 西尾フミ子(73)
 なぜかその日のことは、今でもはっきり覚えている。
 どこかで兄の声がした。「兄ちゃんが帰ってきたんだぁ」。眠い目をこすり、跳び起きてお勝手に行くと、あかあかとかまどのまきが燃え、兄は母や姉と餅つきをしていた。私はうれしくて兄のそばから離れず「ごまのはえ、あっち行けぇ」とからかわれても、兄のまわりを跳び回っていた。
 日本が無謀な戦争へと突き進んでいた時代。あこがれの予科練に入隊した兄は、その2年後、南の海に散った。大好きな兄と過ごしたうれしいお正月。5歳の忘れられない思い出である。


   「年賀状」   霧島市 有尾茂美(78)
 元旦に配達された年賀状の束に丹念に一枚一枚目を通していく。その時の心境は何にも代え難い至福のひとときである。裏面に目を通すと大半が決まり文句の儀礼的な印刷文字である。干支にちなんだ動物がカラフルに描かれ、見た目にも美しいものが多い。たとえ印刷された年賀状でも、心のこもった肉筆の文字が1行でも書き添えられていたら親近感が一層深まること請け合いだ。理由の如何を問わず元旦から1週間以上経過して届いた年賀状は、貰わないよりはましだが、うれしさは半減する。いずれにせよ年賀状が届くのはもう目前なのである。


   「正月っどん」    鹿屋市 田中京子(57)
 「正月」という言葉の持つ不思議な響きが私の心をとらえていた遠い幼い日の鮮烈な記憶。
 玄関から木戸にかけてシラスをまく父に理由を尋ねると父は答えた。「正月っどんが来やっからよ。明日の朝、通いやいが」。〝正月っどん〟はどんな人だろうかと父の言葉を信じ、元日の朝早く起き出たが「今さっき通って行っきゃったよ」と父。会えずにガッカリした私。元旦に新しいげたや赤いゴムまりを胸高鳴らせながら下ろしたり、親類が集まり酒宴で賑わうのも子供心にうきうきうれしかった。すべて〝姿なき正月っどん〟のなせることだった。


   「正月船祝い」   鹿児島市 川端清一郎(60)
 私の故郷、薩摩川内市の甑島町手打には毎年正月2日、漁師に代々受け継がれている「船祝い」がある。漁師たちは1年間事故もなく平穏に働けるよう船霊様(ふなだまさま)に祈り、豊漁と航海の安全を家族と共に祈願する。軍艦マーチを勇壮に響かせながら海上パレードをする。船団は白波を蹴立てて湾内を回る。その途中、船主らは3ヵ所の神社の沖で海に焼酎をささげて大漁を祈る。パレードの後は、蛭子神社の祭礼で航海の安全祈願をする。
 新年を迎え、海の恵みに感謝して、漁師たちは新たな気持ちで漁に出る。


「げたの思い出」   志布志市 小村豊一郎(81)
 今は志布志市になっているが当時、西志布志村と呼ばれた過疎の里で小学校に入学した。昭和7年のことである。満州事変が始まり次第に戦争に入っていた。家が貧しく暖房はいろりの火であった。正月を明日に控えた夜、夕食を終え、みんなで火にあたっている時、父が珍しく包みをくれた。開いてみるとげたであった。うれしくて私は畳の上ではいてみた。その時のうれしさを今も覚えている。
 恵まれた戦後の生活の中で幸せの意味をしみじみ考える。亡くなった父の年をとうに越えた今、みんながいい正月を迎えてほしいと願ってやまない。
   

誕生日

2008-01-05 18:22:46 | はがき随筆
 「お父さん、手術日(11月20日)明くる日は82歳の誕生日、おめでとうございます」
 嫁の明るい声、思い切った発言。「そうだった」
 成功か否か不明な手術。嫁も余程考えた末の発言だったのだろう。かねて物事に動じない生来明るい朗らかな嫁。次男に仕え3人の子供の母。プラス思考で私に力をつけるための発言。心の中で言おうか、言うまいか、かっとうしたに違いない。
 手術は成功。諸検査クリア。
 私は今、妻、子供、孫、嫁に囲まれて幸せに浸っている。皆さんありがとう。一日一日を力強く大事に過ごしていこう。
   薩摩川内市 新開 譲(82) 2008/1/3 毎日新聞鹿児島版掲載

これで お正月も 終わった おわった♪

2008-01-05 18:01:08 | アカショウビンのつぶやき
 お正月の三が日、夜毎に、CARDを楽しむのが恒例だった我が家、最終ゲームのあとで必ず夫が
「これで お正月も 終わった おわった~♪♪ 子供たちは早くねろ~♪♪」
と変な節をつけて歌う。

 夫亡きあとは、カードの愉しみも忘れてしまったけれど、今年も久しぶりに揃った家族と束の間の団らんのときを過ごした。
今日は、それぞれの地へ出発。私は朝から取り掛かった山のような洗濯物と片づけで、少々ヒンダレタモシタ(疲れました)。
そろそろ夕餉の準備だけれど一人の夕食はチト寂しいなあ。

「お母さん お正月は終わったぞー、ガンバレ!」
 と、どこかで夫が歌ってるみたい…。