阪神大震災から20年、今朝の新聞は震災関連の記事で埋まっている。
たくさんの痛ましい別れがあり、人に語れないような悲惨な状況を体験した方々も多い。
あの朝は私にとっても、被災者の方々と同じように切ない思い出が残る。
あの日、私は手術後1週間目のまだ動くこともままならない夫と鹿児島市の病院にいた。
長引く看護に疲れ果てた私は、夫のか細い声になかなか起きられず、やっと起き上がった時は、テレビの画面いっぱいに火の手が上がる場面に釘付けになった。
しばらく無言で眺めたあとにつぶやいた私の一言は。
「お父さんこの地震が鹿児島でなくて良かった、ここだったら私たちは助からなかったよね…」
夫は無言だった。
そして気付いた、なんと言う言葉を口走ったのだろう…と後悔した。
その時、夫は末期の腎臓がんで、手術しても余命6ヶ月と告げられていた。
そして半年後、夫は自宅での看取りの中で静かに命の灯が消えた。
そして20年、生涯忘れることの出来ない、震災と夫との別れ。
私にとっても長い長い20年だった。
神戸でも震災を知らない世代が半数となったという。
地震国日本の宿命…地震はいつどこで起きるか分からないし、地元桜島の活発な活動も収まる気配はない。
必ず起きる、大災害にどう対処するのか?
日本人の叡知が問われる所だろう。
たくさんの痛ましい別れがあり、人に語れないような悲惨な状況を体験した方々も多い。
あの朝は私にとっても、被災者の方々と同じように切ない思い出が残る。
あの日、私は手術後1週間目のまだ動くこともままならない夫と鹿児島市の病院にいた。
長引く看護に疲れ果てた私は、夫のか細い声になかなか起きられず、やっと起き上がった時は、テレビの画面いっぱいに火の手が上がる場面に釘付けになった。
しばらく無言で眺めたあとにつぶやいた私の一言は。
「お父さんこの地震が鹿児島でなくて良かった、ここだったら私たちは助からなかったよね…」
夫は無言だった。
そして気付いた、なんと言う言葉を口走ったのだろう…と後悔した。
その時、夫は末期の腎臓がんで、手術しても余命6ヶ月と告げられていた。
そして半年後、夫は自宅での看取りの中で静かに命の灯が消えた。
そして20年、生涯忘れることの出来ない、震災と夫との別れ。
私にとっても長い長い20年だった。
神戸でも震災を知らない世代が半数となったという。
地震国日本の宿命…地震はいつどこで起きるか分からないし、地元桜島の活発な活動も収まる気配はない。
必ず起きる、大災害にどう対処するのか?
日本人の叡知が問われる所だろう。