古来、日本人は高山には神が宿るとして近寄らない風習があった。あまりにも険しく、神々しいことから、“修験の場”として捉えられていた。今から約160 年前に槍ヶ岳を開山した播隆上人は修験者のひとりである。
英国人技師ウィリアム・ガウランドが槍ヶ岳を始めとする飛騨の山々に登り、1878年(明治11年)この山脈を『日本アルプス』と命名し、その14年後、英国人宣教師ウォルター・ウエストンが槍ヶ岳に登頂。帰国後『日本アルプス登山と探検』という本を発行。槍ヶ岳を“日本のマッターホルン”と称賛し、世界に日本アルプスの素晴らしさを紹介した。明治時代末期に、日本山岳会が創立され、山川黙・小島鳥水が機関紙に「南の方の甲斐駒山脈、白峰山脈、赤石山脈、伊那山脈を南アルプス、木曽山脈を中央アルプス、地理学者のいう飛騨山脈を北アルプスと呼ぼう」と明記した時から南アルプスなどの山脈名が出来た。
日本アルプスの誕生の理由は地球科学の学説のプレートテクトニクス(plate tectonics)によると、長野県のアルプス諸峰で、「太平洋プレート」「北アメリカプレート」「ユーラシアプレート」そして、「フィリピン海プレート」が衝突した造山活動である。
果樹園の手伝いでしばしば訪れる飯田市座光寺から見える南アルプスは南北約150km、長野、山梨、静岡の3県にまたがる日本最大の山脈で、三伏峠を境に北部と南部に分かれている。
飯田から見える山脈の方向は、東である。朝日が南アルプスから昇る。東アルプスが正解ではないだろうか。しかし山梨県から見たら南アルプスである。方角にとらわれると混乱する。方角は基点により変わるからである。
文明開化時代に導入した西洋思想の悪影響の残る命名法で適切でないと思う。やはり日本語で、南アルプスを甲斐駒山脈、白峰山脈、赤石山脈、伊那山脈と細分して呼ぶのが好きである。すると「何故、白峰」・「なんで赤石」・「甲斐駒とは」など命名由来を調べる知的好奇心を刺激する。
滋賀県彦根市に住んだことがあるが、外国人の道案内で「タカツキ」と言われると混乱する。「高月」と「高槻」が有るからである。漢字を見れば解かるが、方角は正反対である。高月町渡岸寺には国宝十一面観音像がある。名古屋で「セキ」の道案内を問われると、刃物の岐阜県の関なのか、三重県の亀山の関なのか判別できないのである。漢字は日本人には大切なのである。
写真は積雪で白い赤石岳であるが、夕陽に染まると赤くなる。苦しい言い訳である。名前は人が識別する記号なのだから、区別出来ればよいのであるが、古き良き日本が忘れられていく寂しさが有り残念である。
英国人技師ウィリアム・ガウランドが槍ヶ岳を始めとする飛騨の山々に登り、1878年(明治11年)この山脈を『日本アルプス』と命名し、その14年後、英国人宣教師ウォルター・ウエストンが槍ヶ岳に登頂。帰国後『日本アルプス登山と探検』という本を発行。槍ヶ岳を“日本のマッターホルン”と称賛し、世界に日本アルプスの素晴らしさを紹介した。明治時代末期に、日本山岳会が創立され、山川黙・小島鳥水が機関紙に「南の方の甲斐駒山脈、白峰山脈、赤石山脈、伊那山脈を南アルプス、木曽山脈を中央アルプス、地理学者のいう飛騨山脈を北アルプスと呼ぼう」と明記した時から南アルプスなどの山脈名が出来た。
日本アルプスの誕生の理由は地球科学の学説のプレートテクトニクス(plate tectonics)によると、長野県のアルプス諸峰で、「太平洋プレート」「北アメリカプレート」「ユーラシアプレート」そして、「フィリピン海プレート」が衝突した造山活動である。
果樹園の手伝いでしばしば訪れる飯田市座光寺から見える南アルプスは南北約150km、長野、山梨、静岡の3県にまたがる日本最大の山脈で、三伏峠を境に北部と南部に分かれている。
飯田から見える山脈の方向は、東である。朝日が南アルプスから昇る。東アルプスが正解ではないだろうか。しかし山梨県から見たら南アルプスである。方角にとらわれると混乱する。方角は基点により変わるからである。
文明開化時代に導入した西洋思想の悪影響の残る命名法で適切でないと思う。やはり日本語で、南アルプスを甲斐駒山脈、白峰山脈、赤石山脈、伊那山脈と細分して呼ぶのが好きである。すると「何故、白峰」・「なんで赤石」・「甲斐駒とは」など命名由来を調べる知的好奇心を刺激する。
滋賀県彦根市に住んだことがあるが、外国人の道案内で「タカツキ」と言われると混乱する。「高月」と「高槻」が有るからである。漢字を見れば解かるが、方角は正反対である。高月町渡岸寺には国宝十一面観音像がある。名古屋で「セキ」の道案内を問われると、刃物の岐阜県の関なのか、三重県の亀山の関なのか判別できないのである。漢字は日本人には大切なのである。
写真は積雪で白い赤石岳であるが、夕陽に染まると赤くなる。苦しい言い訳である。名前は人が識別する記号なのだから、区別出来ればよいのであるが、古き良き日本が忘れられていく寂しさが有り残念である。