風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

その日暮らしが最高の幸せ 320号

2008年07月14日 14時51分14秒 | 随想
西洋物質文明の経済活動の繁栄の時代に、社会人生活をして間も無く65歳の定年を迎えようとしている。息子達を社会に送り出し、税金を国に納め、住宅ローンや教育ローンで金融機関を儲けさせ、生命保険の掛け金を支払い、車を数台乗り換え、パソコンを数台購入し、衣食住の支出で生命を維持し、残金は0円である。華麗な人生だっただろうか?

我が家の財政は、自転車操業で、労働を継続しないと倒れる構造的欠陥がある。社会的暴力で65歳を過ぎると職場は無くなる。困ったどうしよう。

古き善き日本の思想は、儒教や仏教の敬老精神で老人を大切にしたようであるが、西洋物質文明の教育はモノカネ万能主義である。素直に育った私は、両親からモノカネを略奪して、親孝行は皆無だった。息子達は親を見て育つから、同じ様な行動原理が働く。敬老精神は死語になった。身から出た錆で、因果応報である。

一日暮し 山尾三省
『海に行って海の久遠を眺め お弁当を食べる 少しの貝と少しのノリを採り
薪にする流木を拾い集めて 一日を暮らす

山に行って山の静けさにひたり お弁当を食べる ツワブキの新芽と少しのヨモギ
薪にする枯木を拾い集めて 一日暮らす

一生を暮らすのではない ただ一日一日、一日一日を 暮らしてゆくのだ』

私の気に入っている詩である。鹿児島県屋久島に住んだ詩人で、宗教家だった。状況が許せば、斯様な生活を夢見ているのである。自然のサイクルと同化した健康で心豊かな毎日。

都会のコンクリート・ジャングルの「少しの貝と少しのノリ」そして「ツワブキの新芽と少しのヨモギ」「薪にする流木や枯木」は何だろうか。

自然の贈り物は都会には少ないが、少しの社会の贈り物は必ずあると思うのである。ささやかな奉仕をして、手に入れたいと思うのである。ささやかな贈り物の無い世界は不自然なのである。社会奉仕をしないで巨額の富が集中する状況は、不自然で恐ろしいことなのである。持続不可能な社会である。

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