対面販売の百貨店が廃れ、対物販売の大型スーパーが大繁盛である。人件費の高騰は奉仕代金が物価の負担になり異常な高額の価格になってしまう。百貨店は富裕層、スーパーは庶民の二極分化が顕著である。
対物販売は物の外見と文字で消費者が判断する人気投票になり、マスメディアの宣伝で左右される。そして僅かな人間の独断と偏見が流通を支配し、全国に波及する。
昔は小規模な店が、個別の商品を専門に販売していた。三河屋は醸造された食品を商い、呉服の越後屋や花火の玉屋・海産物問屋は四十物屋(あいもんや)の屋号を名乗った。
御用聞きは、元祖訪問販売であるが、現在はポストにチラシを投入することに変化して、人間関係は消滅している。そして行商の小母さん。商品が自宅に来た。現代は人間が自動車で商品を取りに行く。人間が商品に支配されている。
富山の薬屋さんの置き薬は配置販売業で、日本独自の医薬品販売の形態であった。次回の訪問時に使用した分の代金を清算し、集金する「先用後利」で、クレジットカードと同じシステムである。訪問時には、風船やおもちゃをプレゼントしてくれ、年に一度の楽しみだった。風邪を引くと富山の薬が良く効くのは、小父さんの人間性と贈り物の相乗効果だった。
昔は人間が商品を販売していた。そして流通支配権が機能し、生産者、問屋、商人、消費者の人間がそれぞれ潤った。
今は商品価格が人間を支配している。生産者は値段を叩かれ、問屋は商人に吸収され消滅し、消費者は商人のボスの独断と偏見による大量生産・大量消費の市場競争原理で、画一的な商品を安いからという理由で大量に買わされ、あるいは買い替えさせられ、賞味期限切れで、また故障や破損で廃棄する無駄遣い快感症候群の患者にされてしまった。
少数の人間に富の集中するアメリカ型の経済は、持続可能な販売方法とは思えないのである。間も無く破綻するだろう。古い日本は質素倹約が美徳だった。
フーテンの寅のバナナの叩き売りのような職人芸の販売方法を懐かしく思い出すのは、近代社会に溶け込めない古いタイプの老人の郷愁なのだろう。カネの力でモノを集める優越感でなく、モノを手に入れる過程を楽しむ余裕が欲しいのである。
対物販売は物の外見と文字で消費者が判断する人気投票になり、マスメディアの宣伝で左右される。そして僅かな人間の独断と偏見が流通を支配し、全国に波及する。
昔は小規模な店が、個別の商品を専門に販売していた。三河屋は醸造された食品を商い、呉服の越後屋や花火の玉屋・海産物問屋は四十物屋(あいもんや)の屋号を名乗った。
御用聞きは、元祖訪問販売であるが、現在はポストにチラシを投入することに変化して、人間関係は消滅している。そして行商の小母さん。商品が自宅に来た。現代は人間が自動車で商品を取りに行く。人間が商品に支配されている。
富山の薬屋さんの置き薬は配置販売業で、日本独自の医薬品販売の形態であった。次回の訪問時に使用した分の代金を清算し、集金する「先用後利」で、クレジットカードと同じシステムである。訪問時には、風船やおもちゃをプレゼントしてくれ、年に一度の楽しみだった。風邪を引くと富山の薬が良く効くのは、小父さんの人間性と贈り物の相乗効果だった。
昔は人間が商品を販売していた。そして流通支配権が機能し、生産者、問屋、商人、消費者の人間がそれぞれ潤った。
今は商品価格が人間を支配している。生産者は値段を叩かれ、問屋は商人に吸収され消滅し、消費者は商人のボスの独断と偏見による大量生産・大量消費の市場競争原理で、画一的な商品を安いからという理由で大量に買わされ、あるいは買い替えさせられ、賞味期限切れで、また故障や破損で廃棄する無駄遣い快感症候群の患者にされてしまった。
少数の人間に富の集中するアメリカ型の経済は、持続可能な販売方法とは思えないのである。間も無く破綻するだろう。古い日本は質素倹約が美徳だった。
フーテンの寅のバナナの叩き売りのような職人芸の販売方法を懐かしく思い出すのは、近代社会に溶け込めない古いタイプの老人の郷愁なのだろう。カネの力でモノを集める優越感でなく、モノを手に入れる過程を楽しむ余裕が欲しいのである。