昨日は認識について、自身のカラアゲに関わる事実 = 頭に浮かぶ映像を追っていくことで書いた。
それに対して「なるほど。そうだよな。」となった方もいれば、「あれ何か違う?」となった方もおられると思う。
「何か違う!?」となった方の思い = 映像としては大きく2つのものがあったのでは?と思う。
一つは知識的に、すでに認識論というものを知っておられての「この筆者が書いているのは、動物の反映像ではあっても人間の認識ではない。端的には、問いかけということが抜けている。」というものだと思う。
認識論の定義としては「対象の頭脳における反映である」ということとともに「(人間の)認識は(単なる対象の反映ではなく)問いかけ的反映である」ともされているからである。
もう一つは、この筆者は認識とは対象が五感器官からの反映によって、頭脳に描かれる像であるとして、それを、そのことを「カラアゲ」の映像として書いている、書こうとしているけれども、そもそも俺は、私は、空腹になった時に「カラアゲ!」とはならないし、何か違うな?と自身の頭の中の映像を思い、浮かべての、その映像と書かれてあることを比べての、であると思う。
これは両者ともその通りと思う。これらは昨日のブログ記事を書いて、直後は「よくかけた!」と思いつつも、次第次第に浮かんできた自身の思い= 映像でもあるから。
この両方の反論に対して答えるには、昨日のブログ記事ではしっかりとかけていなかった、良く言えば書き残していた「認識とは問いかけ的反映である」というところを、そもそも空腹に対してどうして「カラアゲ」となって、それを求めて定食屋さんへ行ったのか?
また、カラアゲが出てきた時に「あれ、これは自分の思っていたカラアゲとは違うぞ。」となるのはどういうことなのか、違うと思った。「カラアゲ」を食べて空腹を満たしたら、アタマの中の映像はどうなるのか、どうなっていくのかを書いてみたい。
それにはまず認識の原点である。魚の反映像像から見ていきたい。つまり、いつもの<生命の歴史>に尋ねればということである。(この項続く)