MJHA(日本を再び健康な国に)〜東洋医学の実践的理論研究~

MJHA(日本を再び健康な国に)という志で、食・運動(姿勢)・睡眠に関わる問題等を論理的に説きます。

唐揚げをめぐる認識論〜認識は問いかけ的反映であるとは〜

2024-11-11 07:12:55 | 哲学(世界観・弁証法・認識論・論理学)
 昨日は認識について、自身のカラアゲに関わる事実 = 頭に浮かぶ映像を追っていくことで書いた。

 それに対して「なるほど。そうだよな。」となった方もいれば、「あれ何か違う?」となった方もおられると思う。

 「何か違う!?」となった方の思い = 映像としては大きく2つのものがあったのでは?と思う。
 一つは知識的に、すでに認識論というものを知っておられての「この筆者が書いているのは、動物の反映像ではあっても人間の認識ではない。端的には、問いかけということが抜けている。」というものだと思う。
 認識論の定義としては「対象の頭脳における反映である」ということとともに「(人間の)認識は(単なる対象の反映ではなく)問いかけ的反映である」ともされているからである。

 もう一つは、この筆者は認識とは対象が五感器官からの反映によって、頭脳に描かれる像であるとして、それを、そのことを「カラアゲ」の映像として書いている、書こうとしているけれども、そもそも俺は、私は、空腹になった時に「カラアゲ!」とはならないし、何か違うな?と自身の頭の中の映像を思い、浮かべての、その映像と書かれてあることを比べての、であると思う。

 これは両者ともその通りと思う。これらは昨日のブログ記事を書いて、直後は「よくかけた!」と思いつつも、次第次第に浮かんできた自身の思い= 映像でもあるから。

 この両方の反論に対して答えるには、昨日のブログ記事ではしっかりとかけていなかった、良く言えば書き残していた「認識とは問いかけ的反映である」というところを、そもそも空腹に対してどうして「カラアゲ」となって、それを求めて定食屋さんへ行ったのか?
 また、カラアゲが出てきた時に「あれ、これは自分の思っていたカラアゲとは違うぞ。」となるのはどういうことなのか、違うと思った。「カラアゲ」を食べて空腹を満たしたら、アタマの中の映像はどうなるのか、どうなっていくのかを書いてみたい。

 それにはまず認識の原点である。魚の反映像像から見ていきたい。つまり、いつもの<生命の歴史>に尋ねればということである。(この項続く)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 病に時あり、その二重性について | トップ | カラアゲに関わる認識の裏の... »
最新の画像もっと見る