近頃、認識の学びの二重の必要性(自身の問題として、とともに患者指導の問題として)を痛感している。そこで、その学びの初歩的なところを「唐揚げを食べる」ということの実際で説いてみたい。
今回は本当の初歩から始めたい。難しい話はなしで、認識 = 映像として「唐揚げを食べる」という日常的な事実を通して、その時々に描かれる認識 = 映像を追ってみたい。
それが一体、認識論とどう繋がるのか?と思われる方が大多数であるとは思う。
しかしながら、学問の始まりは、具体の事実の究明から上がっての、現象論的一般論の構築にあるのであるから、まずは具体の事実を見ていくことが必要なのであり、それが今回の内容と思っていただければ、と思う。
「唐揚げが食べたい。」となる時の我々の頭の中の映像は、一体いかなるものなのであろうか ?
まず、前提として「空腹」であるからの食欲に導かれての、という本能レベルの「何かを食べたい」ということをがある。
(ここは人間にあっては、本能ではなしに認識に導かれてのという場合もあるのだが、それは一応棚上げして)
その本能に導かれての、「何を食べるか?あるいは食べないのか ?」との様々な映像が頭に浮かぶことになる。
「唐揚げ!」と最初からなる場合もあれば「酢豚もあればとんかつも生姜焼きもあるなあ......唐揚げも」と様々な食べ物の象が浮かんだり、過去の「唐揚げを食べて美味しかった映像」「昨夜、唐揚げを食べれなかった映像」というような......いろんな「唐揚げ」に関わる。あるいは関わらない映像が、無数に頭に浮かぶことになり、その中の一つを「唐揚げ!」として選ぶということになる。
もちろん人間であるからには、その本能レベルの欲求に従うだけではなしに、それを抑え込む映像も描くことになる。
例えば「今食べたら夕食が食べれなくなるからやめよう」「唐揚げは太るから体に悪いからやめよう」「今は忙しいから後にしよう」等々。
それら様々な映像から「唐揚げ」という映像一つに絞れて初めて、その映像は力を持ち、我々はその映像を現実のとするために、現実の行動を起こすことになる。
「唐揚げだったら、関西学院大学のそばのハングリーウィッチが美味しい安い量が多い!と聞いたことがある。」となって、服を着替えて出かけていくことになる。
そして店について「唐揚げセット」が出てきて、食べ出すと空腹が満たされていき、食欲も消えていく......と共に「唐揚げ食べたい」という映像も消えていくことになる。
以上が空腹からの食欲によって、「唐揚げ食べたい」の映像を描いて、その映像を現実のものとすることで、空腹が消えていくと共にの「唐揚げ食べたい」という映像が消えていく、という映像の具体的な流れである。
ここを基本として「唐揚げ食べたい」と描いたにもかかわらず、お店が閉まっていていて「油そば」を食べて本能的欲求 = 空腹は満たしたけれども、認識としての欲求「唐揚げ食べたい」が満たされない。解消されない時はいかなることになるのか ?
あるいは、唐揚げは食べたけれども、本能としての食欲が満たされない時はいかなることになるのか ? 等々の問題を、次には説いてみたい。
認識論についての自身の思い。
人間は認識的実在であるとか認識的存在であるとか。あるいは動物と人間との分水嶺は、動物が本能に従って行動するのに対して、人間は認識に従って行動する点にある......等々言われる。
それほどに人間にとって大切な認識について、世間的一般的にはほぼ何も知らない、と言っていいと思う。認識とは何かと聞かれても、頭には明確なイメージが浮かばず「ええっと......???」となって口ごもるしかないのが通常であろう。
アバウトに言えば認識とは五感器官を通して外界から反映した感覚、が一体化されての脳細胞に描かれるところの映像である。と定義されている。
しかしながら、知識としての認識とは、はそうであっても、その実態・実際はいかなるものなのであろうか ? ということが、それを実際に見て取ることが、そしてできればそれを望ましいものへと変えていくことが問題となってくるはずである。
自身では認識論と弁証法という言葉には長い間触れてきたにもかかわらず、弁証法すら未だしなのに、認識論など夢のまた夢!との思いで棚上げしてきた過去(半世紀以上もの)がある。
しかしながら、「いつかは認識論を学ばねば!」との思いは常に持ち続けてはいた。
そこで、今回のブログ再開を機に認識論についても記事として書いていくことで、自身の認識をの学びのスタートにしたい。
とともに、ブログ読者の皆さんにも認識論の学びはお役に立つはずという思いがある、からのブログ記事で認識論について書くである。