そろそろまとめにかからないと、いけないですね。ちょっと気持ちを引き締めて、キャンドル市民革命の成功について何点か整理をしてみます。
まず、市民の怒りのエネルギーをひとつに集中し、政治的な力として表現できる広場ができたことが大きいですね。このような広場ができる要因として、3つぐらい注目しましょう。
なんといっても、<パク・グネ政権退陣非常国民運動>が2500という韓国全土のほとんどの市民団体や社会団体を網羅して成立、毎週土曜日の集会を準備したことが大きいです。すでに書きましたが、<状況室>と呼ばれた事務局には100名ほどのスタッフが集まって、実務の準備をしました。たとえば、日本で集会を準備するとき、何人ぐらいが準備で動くのかな? 100名、それもずぶの素人ではなく、何人かはいわば「集会のプロ」です。どのように準備をするか、当日はどう運営するか、万が一の対応はなど、キッチリと基礎ができている活動家がチームリーダーになったようです。今回、日本に一緒に行ったイ・スンフンさんも学生運動を経験していますから、20年近く活動歴があるベテランです。このような中堅活動家の層の厚さが、今回のキャンドル市民革命の成功の理由の一つだと思います。
次に、基礎動員力の力が大きいです。市民社会団体連絡会議に500の団体が所属していますが、これに民主労組などの労働運動、政治グループなどが参加すると、10万人から15万人ぐらいの動員力があります。もちろん、今回のキャンドル集会では100万人以上集まっているので、この動員力をはるかにオーバーしています。日本の場合、70年代から80年代ぐらい、社会党‐総評の枠で一番集まったのが10万人ぐらいだったと思います。いわゆる新左翼と呼ばれた勢力の場合、77年の4月に三里塚で1万5000人ぐらい集まったのが最高でしょう。ですので、日本の数字に比べると韓国の動員力が、どれだけ大きいかがわかると思います。
そして、非暴力を最後まで守り切り、逮捕者もけが人も出さなかったという点です。最初の2、3回は警察のバスの上に上がったり、明け方に小競り合いをした参加者もいたそうですが、長期戦になるとみなが判断してからは、不必要な挑発や衝突はなくなりました。これは、本当にすごいことで、みんなが安心して参加できる雰囲気を作りました。ただ、ここで注意をしたい点があります。非暴力というと合法的な闘いとなって、デモ行進などもきちんと警察の指示に従ってやるようなイメージを持ちますが、韓国の集会やデモは決してそうではありません。そもそも、光化門広場の周辺はアメリカ大使館があるので、デモや集会は禁止されている地域です(大使館より、100メートル以内)ですので、文化行事としてソウル市に光化門広場の使用許可を出して、使っているわけです。ソウル市も市長が進歩的なパク・ウォンスン弁護士ですので、そのあたりはあ・うんの呼吸ですね。このほかにも、放水用の水を使わせない、周辺のビルのトイレを開放させる、など大変協力的でした。話を元に戻しましょう。今回も青瓦台までデモをしようと、さまざまな手段を使って実現させました。そして、いざ、デモが始まると、許可された時間をはるかにオーバーしてデモを行っています。自分たちの要求を通すため、ぎりぎりのところまで抵抗します。なぜなら、韓国の憲法一条にあるように、すべての権力は国民から生まれるからだ、という自信が参加者全員を精神的に強くしたのだと思います。この強さがキャンドル市民革命の成功の大きな要因でしょう。
次回は、90年代の韓国の進歩的な運動をスケッチしてみます。この時代がわからないと、今回のキャンドル市民革命を本当に理解するのは大変だと思います。こうご期待!
高校生たちのデモ(入試統一試験が終わり、下野が始まる)