<最初の一歩 2>
話しは今から45年も前の1972年から始まる。その年の夏、相模原補給厰から修理をおえベトナムに送られていた戦車を、横浜市が村雨橋で止め、2日ほど現場で睨みあいを続けたあげく、補給厰に戻るという出来事が起きた。
当時の横浜市長は社会党の飛鳥田一雄、村雨橋は横浜市のもの、戦車を積んだトレーラーが重量オーバーなので、管理責任者として止めた訳だ。米軍の港、ノースピアの入り口にこの橋があるので、他の道や橋は使えないし、国がしゃしゃり出てきても出来る事はない。横浜市長自らベトナム反戦運動を直接行動で示したと言える。
結局、トレーラーは補給厰に戻り、補給厰の前にはベトナムへの戦車搬出を阻止するために泊まり込み用のテント村が出来た。社会党や共産党はもちろん、新左翼の各グループやべ平連などの市民グループまで、10以上(20以上という話も聞いたことがある。正確な情報、お願いします)のテントが並び、"解放区"となった。補給厰の西門から国道16号線に繋がる道路はかなり広く、片側2車線+並木のあるグリーンベルト+1車線という構造だったので、テントを建てるスペースには困らなかった。法的な許可を取っていたのか不明だが、それが可能な世論があり、警察も手が出せない状況だった。
僕は当時、町田に住んでいたので、目と鼻の先の出来事だった。まだ、小田急の新原町田駅と横浜線の原町田駅は離れていて乗換え用の路地があったが、ヘルメットを被った学生等がそこを通ったという話も聞いていた。
政府が法律を改悪し、テント村が撤去され、9月18日の早朝、戦車はベトナムへ送られる事になる。
結局、テント村があった時には相模原に行かず、だいぶたってから現場に何度も行くことになる。
そして、12月、自分で事務所に電話して日時や場所を確認し、北ベトナムへの空爆に抗議するべ平連のデモに参加することなる。今から、45年も前の昔話だ。
#なお、この<最初の一歩>の文章はフェイスブックに載せましたが、検索ができないのブログに再度載せます。皆さんの感想や事実関係の確認、修正をお願いします。
写真は、上が村雨橋で横浜市と組合が戦車の通行を阻止している様子。下が国が法律を改正して戦車が再び送り出される様子。