<最初の一歩 4>
ベ平連の事務所は東西線の神楽坂駅のすぐ上にあった。1階にコーヒー専門店とラーメン屋?がある小さな建物の2階だった。
僕の高校が新宿にあったので、飯田橋まで国鉄!で行って神楽坂の坂を登って事務所まで行った。
事務所は、確か4つに区切られていて、入り口の部屋に小西裁判を支援する会と三菱反戦一株運動の事務局が入っていた。右側が印刷機、と言ってもガリ板の輪転機、青焼きのコピーもあったと思う。
奥の二部屋の左が事務局のスペース、右が会議室だったと思う。事務局長は吉川勇一さんで、かなりオシャレな人だったと思う。実は、その後、代ゼミでお世話になった。(英語を教えていた)
ただ、金庫番というか事務局次長というか、確か吉田さんという人が事務を担当していた。ベ平連ニュースの編集が山口文憲さんだったと思うが、僕などとは10歳近く違うので、話した記憶はほとんどない。その他、室謙二さんや吉岡忍さんなどを見かけたが、大人の世界の人たちであまり近くには行かなかった。
僕が所属したというか、一緒に活動したグループが二つあって、一つは相模原補給厰から戦車、正確には装甲兵員輸送車のM113がベトナムに向けて再び運び出されたとき、ベ平連のメンバー4名が飛び出してトレーラーの下に潜って阻止しようとしたことがある。もちろん、現場で逮捕され、威力業務妨害に問われた裁判が始まっていた。その裁判を支える会の事務局として、会報を作ったり、裁判費用を作るためのバザーをしたり、裁判の傍聴なども高校生で体験した。事務局の中心が確か東洋大の純子さんと早稲田の中井?さん、今で言うフリーターのあんちゃん(本名、覚えていないな)、神奈川大の○○さんなどがいた。
被告は4名だったが、インディアンというあだ名のメンバーが未成年のため、3名で行われた。明大の大学院生、ペンギン、クロちゃんの3名だ。クロちゃんこと岡田理さんとはその後も関係があって、彼は僕が韓国に来る2年ほど前に韓国での暮らしを始めていた。僕が日本語教師をしていた頃に会ったのが最後だから、今から10年以上も会っていない。
もうひとつが、純生などと一緒に新宿の歩行者天国でビラを撒いたり、署名を集めたりしたが、あまり覚えていない。
こんな活動を、いわば学校の外でやっていたわけだが、何か物足りない、もっとラジカルな活動をしないと、という考えを持つようになった。その時、考えていたのが、地域の草の根の活動、労働組合運動、障がい者解放運動等の個別課題の活動、そして革命のための前衛党の活動の四つだった。