韓国雑記帳~韓国草の根塾&日韓環境情報センター&ジャパンフィルムプロジェクトブログ

韓国に暮らして30年。なぜか韓国、いまだに韓国、明日も韓国。2022年もよろしくお願いします。

最初の一歩 4

2017-10-15 04:52:00 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩 4>


ベ平連の事務所は東西線の神楽坂駅のすぐ上にあった。1階にコーヒー専門店とラーメン屋?がある小さな建物の2階だった。

僕の高校が新宿にあったので、飯田橋まで国鉄!で行って神楽坂の坂を登って事務所まで行った。
事務所は、確か4つに区切られていて、入り口の部屋に小西裁判を支援する会と三菱反戦一株運動の事務局が入っていた。右側が印刷機、と言ってもガリ板の輪転機、青焼きのコピーもあったと思う。
奥の二部屋の左が事務局のスペース、右が会議室だったと思う。事務局長は吉川勇一さんで、かなりオシャレな人だったと思う。実は、その後、代ゼミでお世話になった。(英語を教えていた)
ただ、金庫番というか事務局次長というか、確か吉田さんという人が事務を担当していた。ベ平連ニュースの編集が山口文憲さんだったと思うが、僕などとは10歳近く違うので、話した記憶はほとんどない。その他、室謙二さんや吉岡忍さんなどを見かけたが、大人の世界の人たちであまり近くには行かなかった。
僕が所属したというか、一緒に活動したグループが二つあって、一つは相模原補給厰から戦車、正確には装甲兵員輸送車のM113がベトナムに向けて再び運び出されたとき、ベ平連のメンバー4名が飛び出してトレーラーの下に潜って阻止しようとしたことがある。もちろん、現場で逮捕され、威力業務妨害に問われた裁判が始まっていた。その裁判を支える会の事務局として、会報を作ったり、裁判費用を作るためのバザーをしたり、裁判の傍聴なども高校生で体験した。事務局の中心が確か東洋大の純子さんと早稲田の中井?さん、今で言うフリーターのあんちゃん(本名、覚えていないな)、神奈川大の○○さんなどがいた。
被告は4名だったが、インディアンというあだ名のメンバーが未成年のため、3名で行われた。明大の大学院生、ペンギン、クロちゃんの3名だ。クロちゃんこと岡田理さんとはその後も関係があって、彼は僕が韓国に来る2年ほど前に韓国での暮らしを始めていた。僕が日本語教師をしていた頃に会ったのが最後だから、今から10年以上も会っていない。
もうひとつが、純生などと一緒に新宿の歩行者天国でビラを撒いたり、署名を集めたりしたが、あまり覚えていない。
こんな活動を、いわば学校の外でやっていたわけだが、何か物足りない、もっとラジカルな活動をしないと、という考えを持つようになった。その時、考えていたのが、地域の草の根の活動、労働組合運動、障がい者解放運動等の個別課題の活動、そして革命のための前衛党の活動の四つだった。

写真は新宿西口のフォークゲリラ、僕が<覚醒>する前の出来事。

最初の一歩 3

2017-10-15 04:45:00 | 最初の一歩~どこまで行っても

<最初の一歩 3>


べ平連、ベトナムに平和を!市民連合が立ち上がったのが1965年のことだから、1972年の暮れから参加した僕などは、若手というか少年べ平連というか、はっきり言って、一番最後をヨチヨチついて行ったようなものだ。
べ平連を最初にキチンと知ったのが、三一新書の「ベ平連」だったと思う。ただ、当時は「朝日ジャーナル」とか「展望」(筑摩書房)、そして泣く子も黙る「世界」等が頑張っていて、読み始めていたと思う。この辺の記憶は曖昧で、もしかするとデモへの参加のほうが先かもしれない。高校生でこんなのを読んでいて、どのくらい理解していたか怪しいが、高校の時に書いた文章を読むと、今とあまり変わっていないので、驚いたことがある。
もう少し前、中学校に壁新聞形式の印刷された写真ニュースが張ってあって、その記事の中には、確かベトナムのソンミ村での虐殺のニュースがあった記憶がある。テレビのニュースでも、北ベトナムへの爆撃などが報道されていたし、ベトナム戦争が身近にあるという感じだった。
だから、<戦争を知らない子供たち>という歌が、タイトルからして嫌いで、日本だけの平和なんてナンセンス、と思っていた。
そんな時代に、高校生2年生で政治活動を始めたわけだ。僕の通っていた新宿高校は、めちゃくちゃ放任主義の学校で、制服は自由だし、連絡なしで欠席してもノータッチという、生徒の自主性に任せたところだった。なので、3年にもなると、週1、2回ぐらい学校が終わってから神楽坂の事務所に通っていた。月1回、ニュースが発行されていたから、ニュースの封筒入れとか、定例デモの準備とか、高校生でもやれる事はいろいろあった。
僕以外にも、高校生や20歳ぐらいの若手の固定メンバーが何人かいた。もう、45年も昔の事だから、分かる範囲で名前(あるいは、呼び名)を書くと、理工系大学の学生の純生、ひとつ年上の成り上がり、同い年は、小林君にゲホ君、フレンド学園の女の子達、エミちゃんだったかな姉妹で来てたっけ、純生の彼女もこの学校、2つぐらい上に、あんちゃん、ナカベ、そうそう、以前韓国にもいたクロちゃんこと、岡田君。
数人から10人ぐらい、若者グループがいた。
今では覚えていないけど、学習会等もやった覚えがある。
当時、神楽坂の事務所では定例会議があったようだが、1、2回しか出た記憶がない。確か大きな国際会議を準備する会議で、この時、小田実(おだまこと)も来ていて、体に似合わない甲高い早口で仕事の分担を指示していた記憶がある。 写真は小田実