昭和21年の夏、広島駅の近く音楽喫茶「ムシカ」で浜井信三を始めとする
有志が安コーヒーをすすって話し合ったといいます。その結果の一つとして
実現した昭和22年8月6日の第一回の「平和祭」で述べられたのは
「この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立する・・」
とする理想に燃えた宣言でありました。
それから72年、繰り返し発し続けられた声は、日本の世界の多くの為政者
に届くことはなかった・・
74年目の今年は雨の中の慰霊・平和祈念式となりました。
市長は「平和宣言」のなかで、日本政府に対し核兵器禁止条約の批准を
求めました。湯崎広島県知事もまた、核兵器保有国を認めることの不条理を
説き、核全廃へ向けての政府の決断を迫りました。
慰霊碑の前で、原爆の子の像の前で、市内に点在する多くの碑の前で多くの人
が平和を祈りました。
それらのヒロシマの祈りと願いは今年もまた、この国の為政者に届くことは
ありませんでした。空しい思いはもう我慢の限界をこえそうです。
私は会場で幾人かの人と語り、広島平和記念聖堂で行われたミサと
沖縄の過去と現在の痛みを語る一人芝居「もうひとつのせんそう」を
見ました。
有志が安コーヒーをすすって話し合ったといいます。その結果の一つとして
実現した昭和22年8月6日の第一回の「平和祭」で述べられたのは
「この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立する・・」
とする理想に燃えた宣言でありました。
それから72年、繰り返し発し続けられた声は、日本の世界の多くの為政者
に届くことはなかった・・
74年目の今年は雨の中の慰霊・平和祈念式となりました。
市長は「平和宣言」のなかで、日本政府に対し核兵器禁止条約の批准を
求めました。湯崎広島県知事もまた、核兵器保有国を認めることの不条理を
説き、核全廃へ向けての政府の決断を迫りました。
慰霊碑の前で、原爆の子の像の前で、市内に点在する多くの碑の前で多くの人
が平和を祈りました。
それらのヒロシマの祈りと願いは今年もまた、この国の為政者に届くことは
ありませんでした。空しい思いはもう我慢の限界をこえそうです。
私は会場で幾人かの人と語り、広島平和記念聖堂で行われたミサと
沖縄の過去と現在の痛みを語る一人芝居「もうひとつのせんそう」を
見ました。