よほど、お暇なかたは、お読みください
トットちゃんと私
涙が止まらなくて困った。
トットちゃんの話は、あまりに心の襞に入りすぎる。
人の心の中までは覗けないから、どれほど私が人と違うかは計りようも無いけれど、私は相当感受性が強い子だったと思う。
そのせいか、自分も子供なのに、子供が苦手だった。
保育園のお気に入りの場所は、人気のない湿気た倉庫の中だった。
飛び箱やマットの谷間で、いつもじっとしていたと思う。
退屈でもなく、辛いとも思わずに。
父母の教育方針によって、平仮名も数字も知らなかった。
先生と一緒に「一足す一は二!」と勉強する時間、外国語を聞いているようだった。
私は、不妊症の母が命がけで産んだこどもで未熟児、仮死で生まれた。
一人っ子で、発達も遅く、病弱だった。
だから、両親の子育ての方針は、
元気でさへあれば、私は私のように育てば良いということだった。
とにかく、同級生から見ると、私は「バカ」に見えたらしい。
園庭の土管の中で、じっとしていた私は、
「バカだから、あんたは一年生になれない」
と言われた。
そうなのか、とその時は思った。
後で聞いた話では、卒園時の知能指数が高く、母は、園長先生に呼ばれ、大学まで行かす心づもりで育てるようにと言われたそうだ。
幼少時、私の頭の中は、トットちゃんと同じ、いろんな発見や驚きや良心で埋まっていた。
ただ、トットちゃんのようにそれを外に出そうとしなかった。
学校に入って初めて字を習った私は、あっという間に、字の虜となり、凄い速さで読破してしまう私の為に母は本の調達に奔走していた。
小学二年の頃には、既に、ジェーン・エアや、嵐が丘を読んでいたと思う。
母の時間を稼ぐ為の苦肉の策だったようだが、私の本好きはますます深みにはまり、中一の春には、市立図書館の文学書を全て読み終えていた。
読むほどに、トットちゃんと私の感性は重なってしまうのだけれど、違うことは、トットちゃんのは最初から殻がなかったことだ。
わたしは、小五のとき、やっと殻から飛び出した。
それは、音楽の時間が急に自由になり、三十台ほどのオルガンを皆がてんでに弾いていたときのことだった。
お気に入りのソナチネを弾いていると、
「何をデタラメ弾いているの?」
と、笑って言われたから。
当時、まだピアノが弾ける子は少なく、内気で目立たない私が弾けるわけはなかったらしかった。
わたしは、やっと、殻から出ないといけないことに気付いた。
じっとしているだけでは、自分を理解して貰えないことをやっと悟った。
それから私は、トットちゃんそのものになった。
思うまま自由に泳いだ。
誰の前でも、少しも怯ますに自分を表現した。
トットちゃんと同じで、眉をひそめるような両親ではなかったから。
トットちゃんの行動には、一つ一つ私にも思い当たる事があり、まるで、自分のアルバムを開いているようだった。
それにしても、黒柳さんの記憶力には脱帽してしまう。
今の時代にこそ、トモエ学園が可能だったらいいなと痛切に思う。
一人一人素晴らしい子供なのに、認めて貰えない子供のなんと多いことか。
学校や社会だけでなく、家庭でまで認めて貰えないとしたら・・・
本当に胸が詰まる。
ふと、学生時代の母からの手紙の束を読んで見た。
どの手紙も
「自由に思うまま生きて見なさい」
という主旨のことが書いてある。
どんどんいろんな経験をしてみるべきだとも。
勝手に自分の意志で自由に生きてきたつもりだったけれど、
今思うと、両親の考えでもあったらしい。
母は中卒だ。
だけど、たった一人の娘に自由に生きることを勧め、
勉強もスポーツもなにも強要せず、
娘を信じ見守ってくれた母をすごい人だと思う。
父にも面子があっただろうに、
私は不満めいたことを言われたことがない。
かけっこは、いつもビリで、
いつも先生達をあっと驚かすことばかりしていた娘を、
常に揺らがず、
「自慢の娘」として、胸を張っていてくれた両親を私こそが誇りに思う。
そして、そのことに気付かせてくれた黒柳さん、ありがとう。
ご精読ありがとうでした。
十数年前の下書きが出てきたので、記録しておこうと思って・・・
納得していただけたかしらん?
こうして、くちこはできました。
奇しくも、今日は台湾にお墓のある祖母の命日でした