川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

高麗王若光の墓のなぞ

2009-12-13 08:38:28 | 川越・近郊
12日(土)前日とはうってかわって、暖かくよく晴れたので、高麗(こま)を散歩することにしました。

 高麗神社から聖天院に向かう小道に入ってからすぐに神社裏の山に登る小道が見えたので行ってみることにしました。何十回と訪ねてはいますが裏山に登るのは初めてです。

 杉の木立の中を息を切らせながら登っていくと墓地が広がっています。その一番奥まったあたりに小さな鳥居があり、それをくぐると円墳が三つ並んでいます。どれも芝草で覆われており、韓国・慶州で見た王陵のミニ版です。

 それぞれの円墳に黒御影石の小さな墓誌が建っており、一番左側のそれには「伝若光之墓」と刻まれています。

 妻は十年ほど前、高麗神社の神官にここを案内してもらったそうです。高句麗から亡命してこのあたりに住み着き、高麗郡のリーダーとして活躍した「高麗王若光」の墓はこの円墳ではないかと高麗さん(神官)は言われたとのことです。それより数年前、最初に見たときは墓域全体が木立に覆われていたそうです。

 高麗神社の境内にある高麗家住宅の裏からこの円墳までは今はきちんとした道が整備されているのですが普段は閉ざされており、ぼくも入ったことがなかったのです。今日は当てのない裏山の散歩をしていて偶然たどり着いたというわけです。

 ここからの眺めは絶景といってよく、遠くの木立の向こうはまるで海のように見えます。この場所はリーダーの墓地にふさわしいかもしれません。

 高麗で若光の墓といえば誰もが聖天院にある「高麗王廟」を思い出すに違いありません。近年、韓国の金鐘泌元首相の字で「高句麗若光王陵」と書かれた碑が建てられたので、これが若光の墓だと誰もが思うかもしれません。「陵」といえば墓を指す言葉で「廟」とは違います。。それに「王(こきし)」というのは大和の王権が渡来系の若光に与えた姓(かばね)で、高麗王若光(こまのこきし じゃっこう)です。「若光王」という王様がいたわけではありません。

 覆い屋の中にある砂岩を重ねた供養塔(ストゥッパ)は、鎌倉時代の頃のものだろうというのが、今では定説になっているようです。ですから「高麗王廟」を若光の墓とするのは素人のぼくでも無理があるように思います。高麗神社の裏山にある「伝若光之墓」の方がずっとリアリティを感じます。

 それでも高麗神社のどこにも「伝若光之墓」の説明も道案内もありません。しかも参道は閉鎖されたままなのです。これはどういうことなのでしょうか?

  聖天院の「高麗王廟」http://www.bell.jp/pancho/travel/saitama/shodenin.htm

 聖天院は近頃あちこちが建て替えられたりして様相が一変しました。入場料をとるようになりました。そのせいもあってぼくは門前から引き返すようになりました。

 読者の皆さんが高麗郷にいくことがあったら高麗神社の裏山の小道を登って「伝若光之墓」を訪ねてみてください。どんな感想を持たれるでしょうか。


 高麗郷http://www.h6.dion.ne.jp/~arc-yama/sketch/machi/doc/koma.html#map

 今日はこれから「牛込箪笥町ホール」に行って、「北朝鮮帰国者問題の本質と課題」という集まりに参加します。
 高句麗は今の北朝鮮から中国にかけてを版図としていました。668年唐・新羅の連合軍に攻められ首都・平壌は陥落、滅亡しました。その遺民の一部がこの列島に亡命し、大和の王権の庇護を受けて高麗郡を作ったのです。

 今も昔も朝鮮半島や大陸の激動と日本列島は無縁ではあり得ません。