川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

即身成仏 恵美ちゃんの話

2009-12-29 08:57:03 | 友人たち
 昨日はいい天気でしたが年賀状作りで家に閉じこもり。例年通り僕らは原稿を書くだけでイラストや構成は娘頼りです。この一年の住所変更や出会った方々のアドレス登録などをしていると日が暮れました。

 北海道十勝池田の陽子さんからは一家が今年限りで農業を卒業したという声の便りがありました。僕の農業の先生である正樹さんは来年70を迎えます。ここらが引けどきと考えられたのでしょう。
 今年はお母さんが亡くなられ夫婦だけの生活になりましたが息子さんと娘さんの一家が近くに住んでいるので時々三家族団欒の時があるようです。
 夫婦で長い年月を農業一筋に歩いてこられました。第二の人生もきっと豊かなものにしていくことでしょう。
 僕が出会ってからは47年が経ちました。来年夏には久しぶりにお邪魔できるでしょうか。

 忘れないうちに先日、王子の恵美ちゃんに聞いた話をメモしておきます。

 恵美ちゃんのお父さんが亡くなられたのは去年の1月12日です。大晦日の日に体調を心配して入院させたのですが自分で歩いて行くぐらいでピンピン?していたそうです。

 しかし、お父さんは自分で何かを決めたらしく、食事を一切摂らなくなり、体も動かさないようになったといいます。食事を勧めると固く拒絶したとのことです。3回目の入院だったのですが、これで自分の人生にピリオドを打つという自己決定をしたのではないかということです。

 恵美ちゃんが結婚してからは一人で生活してきました。晩年に娘の家庭に世話になったがもうこれ以上は迷惑をかけたくないと思ったのかも知れません。

 思い通りに生きてきた人生、死期もまた自分で決める。そういう強い意志が感じられたということです。

 出羽の湯殿山で即身仏を見たことがあります。恵美ちゃんのお父さんが選んだのは即身成仏の道であったのか、と思いました。84歳だったそうです。

 仏壇に飾ってある若いころの写真を見るとなかなかの好男子です。超美人のお母さんと三ノ輪では初めての喫茶店を開業したり、カメラのお師匠さんになったり、モダンで芸達者な人柄が想像されます。
 お母さんと別れてからは魚屋さんをやりました。築地で仕入れてくるのはいいけれど、店に出すのは中学生の一人娘にまかせて自分は喫茶店でコーヒーを飲んでいたとか。

 恵美ちゃんに言わせればわがままで、自分が生きたいように生きた人です。でも彼女は心の奥深くで父を温かく受け入れているように思えます。
 得意だった調理を娘にきちんと教えて、母親がいないからと肩身の狭い思いをしないように育てたといいます。

 「遺言」は自分の死後に残ったカネがあったら、生活費以外のものに使え、というものだったそうです。

 そのお金でただ一人のお孫さんが大好きな沖縄の版画家・名嘉睦念(なか・ぼくねん)さんの犬の絵を買って飾ってありました。おじいちゃんの最晩年に一緒に暮らしてトイレ介護に協力したといいます。この絵がおじいちゃんの思い出と重なってお孫さんの宝になっていくのでしょう。

 こんな話に耳を傾けているとその「壮絶」としか言いようのない死にざまもまさにこの方の生き方そのものだったことがわかるような気がします。

 僕は昔、恵美ちゃんが生徒だった時、魚屋さんを訪ねたことがありますがお父さんにお会いしたかどうかもはっきりしません。近年、恵美ちゃん宅に立ち寄った時ご挨拶したのが最後です。おしいことに直接人生の話を聞かせてもらうことはできませんでした。

 即身仏http://dainichibou.or.jp/soku/index.html