12月18日(金)よく晴れてはいるが風が強いので一日中家にこもる。日当たりのよい二階にもこたつを出して珍しく読書。
昼寝のあとは図書館から借りてきてあるビデオで映画『二十四の瞳』を見る。小豆島で55年ぶりに(後半だけを)見てから一ヶ月近くが経っている。
『二十四の瞳』 四国路①
http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/78a8b028dfd7387fba9682957cbb6b4a
感想 ①白黒の画面の風景がすばらしい。
今はもう小豆島でも失われた町並みや海沿いの村の風景が存分に紹介されている。小学校の修学旅行の場面となる屋島、栗林公園、金比羅さんの風景はとりわけ懐かしい。
ぼくも小6の秋に2泊3日でここに連れて行ってもらった。1953年(昭和28年)のことだ。屋島でかわらけを投げたことや金比羅さんで中谷校長が駕籠に乗ったことなどを友人たちの笑顔とともに思い起こした。
封切りが54年だから撮影はこの時期に行われていたのではないか。
② 全編を通じて流れる音楽が心地よい。
テーマ曲は「七つの子」。「仰げば尊し」と「浜辺の歌」も重用されている。
ほかに。「アニーローリー」「おぼろ月夜」「荒城の月」「みなと(空も港も…)」「春の小川」「(ちんちん千鳥…)」「埴生の宿」「庭の千草」「(月なき美空…)賛美歌」「村の鍛冶屋」「ふるさと」「ちょうちょ」「(汽車、汽車…」)「(開いた開いた…)」「あわて床屋」など。
大正デモクラシーの時代に女子師範学校に学んだ「女先生」の愛した歌の数々。12人の子供たちの心に残り続けたに違いない。敗戦後、僕も同じような歌を教わって育った。今も好きな歌が多い。
「男先生」が教え込もうとした「千引の岩」は初めて聞く。教え子たちや夫の出征風景と一体となって四つの軍歌が延々と流れる。これもまた心に深くしみる。悲しみ。悔しさ、虚しさ。そして大石先生の子供たちが歌って遊ぶ「兵隊さん」。戦争へと突き進む時代の精神をこれらの歌で表現したのだろう。
③父を想う。
大石先生。
昭和3年(1928年)師範学校を卒業して岬の分教場に赴任し、12人の子供たち(一年生)と出会う。
昭和8年(1933年)に本校で6年生になった子供たちを再び受け持つ。昭和9年3月、子供たちの卒業とともに教職を辞す。(戦争へと向かう時代の流れについていけず、静かに抵抗する)。
昭和16年(1941年)~ 教え子と夫が戦死。敗戦直後にはわが子を喪う。
昭和21年(1946年) 補助教員として再び岬の分教場に赴任し、かつての生徒たちの子供の先生となる。生き残った教え子たちに「謝恩会」をしてもらい、贈られたピカピカの自転車で通い始める。
敗戦の日の長男とのやり取り。
大吉「お母さん 戦争負けたんやで ラジオ聞いたん」
大石「聞いたよ でも とにかく戦争がすんでよかったじゃないの もうこれから戦死する人はないもの 生きている人は戻ってくる」
大吉「一億玉砕でなかった」
大石「なかってよかったな」
大吉「おかあさんはうれしいん」
大石「ばか言わんと 大吉はどうなんじゃ うちのお父さん戦死したんじゃないか もう戻ってこんのよ」
大吉「お母さん 泣かんの 負けても」
大石「お母さん 泣いたん 死んだ人が可哀そうで 泣いたん」
僕の父は同じ四国の高知県で昭和2(1927)年9月から羽根小学校に赴任した。大石先生とほとんど同じだ。昭和3年の日記をこのブログでも紹介したことがある。
父の日記 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/d0f36c3b7c04ab3595ec773aaf402f72
この日記を読んで僕が想っていた以上に師範学校時代には自由な思想を身につけていたことを知った。大石先生と似ている。戦争へと突き進む時代にどう対処していったのか。もう少しちゃんと聞いておけばよかったなあ。
「もうこれから戦死する人はないもの」。大石先生がこう言ってから64年が経った。ともかくもこの国の若者が戦争で死ぬことはなかった。
僕は41年間教員をやらしてもらったが大石先生や父のように「教え子」を戦争で失うことだけはなかった。本当にありがたいことだと思う。
④世界恐慌の時代である。事業の失敗や家庭の貧しさのゆえに身売りされたり、親とともに夜逃げする子供たちがいる。大石先生がこういう場面がある。
「先生にもどうしていいかわからないけど あんたが苦しんでいるのあんたのせいじゃないでしょう お父さんやお母さんのせいでもないわ 世の中のいろんなことからそうなったんでしょう だからね 自分にがっかりしちゃだめ 自分だけはしっかりしていようと思わなきゃね 先生 もうほかに言いようがないのよ その代り 泣きたいときは いつでも 先生の所へいらっしゃい 先生も一緒に泣いてあげる ねえ」
教師にできることは今も昔も変わらないなあ。何の力にもなれず、ただただ聞いているだけの自分のことを思う。
それでもそれが大切な仕事だ、とも思う。
⑤木下監督が持てる力を総動員して作った映画だ。
一年生と六年生の子供の役をさせるために兄弟姉妹のコンビを募ったという。(なるほどよく似ているなあ)。6歳の子供を12人も使っての映画作りだ。主演の高峰秀子も本当の「女先生」になるつもりでなければ撮れなかったに違いない。
日帰りの修学旅行に出かける子供たちの船が瀬戸内の美しい海で大石先生の夫の乗る遊覧船と行き違う場面も圧巻だ。撮影を何度もやり直したらしい。修学旅行の喜びを最大限に味わわせてやりたいという思いが満ち溢れている。
⑥この映画は僕の生徒たちには見せたことがない。見たらどうおもうだろう?テンポが遅く、退屈だろうか?
僕には子供たちと生きる原点を確かめるような大切で心に残る傑作だ。
七つの子http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html
昼寝のあとは図書館から借りてきてあるビデオで映画『二十四の瞳』を見る。小豆島で55年ぶりに(後半だけを)見てから一ヶ月近くが経っている。
『二十四の瞳』 四国路①
http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/78a8b028dfd7387fba9682957cbb6b4a
感想 ①白黒の画面の風景がすばらしい。
今はもう小豆島でも失われた町並みや海沿いの村の風景が存分に紹介されている。小学校の修学旅行の場面となる屋島、栗林公園、金比羅さんの風景はとりわけ懐かしい。
ぼくも小6の秋に2泊3日でここに連れて行ってもらった。1953年(昭和28年)のことだ。屋島でかわらけを投げたことや金比羅さんで中谷校長が駕籠に乗ったことなどを友人たちの笑顔とともに思い起こした。
封切りが54年だから撮影はこの時期に行われていたのではないか。
② 全編を通じて流れる音楽が心地よい。
テーマ曲は「七つの子」。「仰げば尊し」と「浜辺の歌」も重用されている。
ほかに。「アニーローリー」「おぼろ月夜」「荒城の月」「みなと(空も港も…)」「春の小川」「(ちんちん千鳥…)」「埴生の宿」「庭の千草」「(月なき美空…)賛美歌」「村の鍛冶屋」「ふるさと」「ちょうちょ」「(汽車、汽車…」)「(開いた開いた…)」「あわて床屋」など。
大正デモクラシーの時代に女子師範学校に学んだ「女先生」の愛した歌の数々。12人の子供たちの心に残り続けたに違いない。敗戦後、僕も同じような歌を教わって育った。今も好きな歌が多い。
「男先生」が教え込もうとした「千引の岩」は初めて聞く。教え子たちや夫の出征風景と一体となって四つの軍歌が延々と流れる。これもまた心に深くしみる。悲しみ。悔しさ、虚しさ。そして大石先生の子供たちが歌って遊ぶ「兵隊さん」。戦争へと突き進む時代の精神をこれらの歌で表現したのだろう。
③父を想う。
大石先生。
昭和3年(1928年)師範学校を卒業して岬の分教場に赴任し、12人の子供たち(一年生)と出会う。
昭和8年(1933年)に本校で6年生になった子供たちを再び受け持つ。昭和9年3月、子供たちの卒業とともに教職を辞す。(戦争へと向かう時代の流れについていけず、静かに抵抗する)。
昭和16年(1941年)~ 教え子と夫が戦死。敗戦直後にはわが子を喪う。
昭和21年(1946年) 補助教員として再び岬の分教場に赴任し、かつての生徒たちの子供の先生となる。生き残った教え子たちに「謝恩会」をしてもらい、贈られたピカピカの自転車で通い始める。
敗戦の日の長男とのやり取り。
大吉「お母さん 戦争負けたんやで ラジオ聞いたん」
大石「聞いたよ でも とにかく戦争がすんでよかったじゃないの もうこれから戦死する人はないもの 生きている人は戻ってくる」
大吉「一億玉砕でなかった」
大石「なかってよかったな」
大吉「おかあさんはうれしいん」
大石「ばか言わんと 大吉はどうなんじゃ うちのお父さん戦死したんじゃないか もう戻ってこんのよ」
大吉「お母さん 泣かんの 負けても」
大石「お母さん 泣いたん 死んだ人が可哀そうで 泣いたん」
僕の父は同じ四国の高知県で昭和2(1927)年9月から羽根小学校に赴任した。大石先生とほとんど同じだ。昭和3年の日記をこのブログでも紹介したことがある。
父の日記 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/d0f36c3b7c04ab3595ec773aaf402f72
この日記を読んで僕が想っていた以上に師範学校時代には自由な思想を身につけていたことを知った。大石先生と似ている。戦争へと突き進む時代にどう対処していったのか。もう少しちゃんと聞いておけばよかったなあ。
「もうこれから戦死する人はないもの」。大石先生がこう言ってから64年が経った。ともかくもこの国の若者が戦争で死ぬことはなかった。
僕は41年間教員をやらしてもらったが大石先生や父のように「教え子」を戦争で失うことだけはなかった。本当にありがたいことだと思う。
④世界恐慌の時代である。事業の失敗や家庭の貧しさのゆえに身売りされたり、親とともに夜逃げする子供たちがいる。大石先生がこういう場面がある。
「先生にもどうしていいかわからないけど あんたが苦しんでいるのあんたのせいじゃないでしょう お父さんやお母さんのせいでもないわ 世の中のいろんなことからそうなったんでしょう だからね 自分にがっかりしちゃだめ 自分だけはしっかりしていようと思わなきゃね 先生 もうほかに言いようがないのよ その代り 泣きたいときは いつでも 先生の所へいらっしゃい 先生も一緒に泣いてあげる ねえ」
教師にできることは今も昔も変わらないなあ。何の力にもなれず、ただただ聞いているだけの自分のことを思う。
それでもそれが大切な仕事だ、とも思う。
⑤木下監督が持てる力を総動員して作った映画だ。
一年生と六年生の子供の役をさせるために兄弟姉妹のコンビを募ったという。(なるほどよく似ているなあ)。6歳の子供を12人も使っての映画作りだ。主演の高峰秀子も本当の「女先生」になるつもりでなければ撮れなかったに違いない。
日帰りの修学旅行に出かける子供たちの船が瀬戸内の美しい海で大石先生の夫の乗る遊覧船と行き違う場面も圧巻だ。撮影を何度もやり直したらしい。修学旅行の喜びを最大限に味わわせてやりたいという思いが満ち溢れている。
⑥この映画は僕の生徒たちには見せたことがない。見たらどうおもうだろう?テンポが遅く、退屈だろうか?
僕には子供たちと生きる原点を確かめるような大切で心に残る傑作だ。
七つの子http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html