川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

新潟港 2009年12月14日

2009-12-15 22:24:30 | 韓国・北朝鮮
【川越だより】のアクセス・ランキング


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 過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)


   日付        閲覧数 訪問者数 ランキング
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 昨日21時のNHKニュースをごらんいただきましたか。19時に続いて新潟港の追悼集会の様子を報じたあと、50年前にソ連船で北朝鮮に渡ったAさんのお話を紹介していました。

 地元紙・「新潟日報」の報道はこんな感じです。

  北朝鮮帰還「何だったのか」
          事業開始50年、遺族ら追悼集会
 

 北朝鮮帰還事業が始まって丸50年となる14日、在日朝鮮人や日本人妻ら帰還者の霊を弔う「新潟港追悼集会」が新潟市中央区の新潟西港中央埠頭で開かれた。遺族ら約70人が参加。日本への帰国の願いがかなわず亡くなった肉親らをしのび「悲劇を風化させない」と誓った。

 集会は脱北者支援など人権問題に取り組む「移民政策研究所・人道移民支援センター」(東京都)が主催。帰還者遺族のほか、脱北者8人も参加した。

 同センターの坂中英徳代表が「50年たち、多くの人が(北朝鮮で)無念の死に追いやられている。犠牲となった人々や日本に残された家族の魂を闇に葬ってはいけない」と追悼の辞を述べた。日本人妻の遺族は「人生を翻弄(ほんろう)した帰還事業とはいったい何だったのか。北朝鮮にいるいとこたちに早く会いたい」と訴えた。
           (新潟日報2009年12月14日)
出典http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/7094.html

 14日午後2時の新潟港中央埠頭は雨模様です。東京からの私たちをはじめ70名余の人々が参列して「あの日を忘れない!新潟港追悼集会」が始まりました。この港から50年前のこの時刻、北朝鮮帰国第一船が北朝鮮に向かったといいます。

 主催者を代表して坂中英徳さんが冷たい雨に打たれながら追悼の言葉を述べます。50年前も厳しい気象条件だったといいます。これくらいの雨など何でもないぞという気負いが感じられます。

 ぼくの隣に萩原遼さんが座っておられます。傘は差していますがセーターも着ていません。雨風が強まってもそのままの姿です。同じ南国・土佐の出身です。昔「赤旗」の平壌特派員を務めたことがあるとはいえ、気持ちの持ちようが並大抵ではないのでしょう。

 ぼくはといえばこのような気象条件を予想して妻が万全の防寒体制を整えてくれています。それでも遺族代表の広瀬さんの言葉、読経、献花と続き、舞踊となるところで建物の脇に移って風雨を避けました。

 読経時の様子 http://www.nhk.or.jp/news/k10014399551000.html

 一時間あまりの追悼集会は見事なものでした。

 北朝鮮でなくなったおばさんを想い、従姉妹たちとの再会を願う広瀬直子さんの言葉はご本人にお願いして「川越だより」に近く紹介させてもらうつもりです。私たちの古い友人で、この日17年ぶりにお会いすることができました。この方が50年間も抱えてきた思いをぼくは初めて聞きました。おばさん一家は埼玉県の高崎線神保原からの旅立ちだったといいます。

 若麻績(わかおみ)さん・福島さん・古川さん。長野・善光寺から駆けつけてくださった「平和を願う僧侶の会」のお坊さんたちの読経。腹の底からわき出る「般若心経」が日本海の空に響き渡ります。その声は風に乗って北朝鮮にも届くかと思うほどです。成仏できないまま、宙をさまよってきた在日コリアンや日本人妻の霊が読経のする方に近づいて来られたのかもしれません。一心に祈る三人の姿にぼくは言いしれぬ感動を覚えました。霊を慰めるお経に命を吹き込んでくれるような力強さも感じました。宗派は違いますが遠い昔の日蓮も斯くやと思ったのです。

 趙 寿玉(ちょう・すおく)さんの鎮魂の踊りは形容のしようがありません。雨と風の中で舞う趙さんと招き寄せられた諸霊たちが交遊しています。50年の恨みを語り、やっと会えた喜びに抱き合っているのでしょうか。雨の地べたに半跏して祈る姿はただごとではありません。この方の修業の極相に立ち会っているようです。

  趙さんhttp://www.amy.hi-ho.ne.jp/kisun/2maisugata.htm 

 雨の中で坂中さんが「日本政府への要請文」を読みます。この人の発案と実行力に改めて深い敬意を感じます。わずか一時間あまりでしたが私たちは希有な体験をさせてもらいました。「祈る」とか「供養する」とか、ということの意味が少しはわかったような気がします。
 坂中さんと坂中さんを助けて今日の日を創った小牧さん、呉さん、本当にありがとう。日本人妻とその家族がこの日本に帰ってくるその日はそう遠くないと坂中さんは言いました。今日ここに参列している若い「脱北者」たちがそのときには先達として立派に働くだろうとも。

 日本政府が今日の日をきっかけにして北朝鮮との交渉の課題として真剣に取り組むようにぼくも微力を尽くしたいと思う。それにしても50年間も出国の自由を認めない政権が存在し続けていることは驚くべきことです。また、自国の国民が50年間も帰国の自由を奪われているのに、交渉の課題にさえしてこなかった日本政府も日本国民も「立派な」ものです。拉致事件とは違ってこちらはずうっと昔から「助けて!」という声が聞こえていたのです。

 3時過ぎには帰りの新幹線に乗りました。上越国境のトンネルを抜けたあたりから朴保(ぱく・ぽう)くんが歌い始めます。「恨(はん)五百年」が車内に響き渡ります。幸いにもこの車両は貸し切りなので、コンサート会場に変わりました。霊との交流に続いて生者の交流です。人々の声が合唱となり、通路は踊る人で満ちあふれます。
 朴くんもおじさんを北朝鮮で喪い従姉妹たちとの再会を願う一人です。ぼくとはもう30年以上のつきあいですが、この話は初めて聞きました。連絡すると矢も楯もたまらず、駆けつけてくれました。

朴保くんhttp://www.youtube.com/watch?v=qHL73QbkJ0I 

 私たちは大宮で皆さんと別れました。友人たちがドアのところまで出てきて送ってくれました。萩原の兄(に)やんの「元気に生きちょらないかんぞ」という大きな声が聞こえました。

 役割を果たした娘と妻は駅前の居酒屋でいっぱいやるという。ぼくは足が冷えるといけないので先に帰って風呂に入った。「今日もすばらしい友人たちに恵まれていい思いをさせてもらったなあ」。